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「三願転入について」
三願転入ということについて考える機会をいただいたので自分なりにまとめてみたいと思います。
まず三願転入というのは教行信証の化身土巻に書かれている部分です。
ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思義往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。
この中には親鸞聖人自らの心の動き、変化が顕著に書かれているわけです。ただこれだけ読むととても難しいそうに感じますが。これを自分なりに解釈して紐といていこうと思います。いまの自分の中のご領解ということで読んでいただけたらと思います。
まず論主というのは世親のことを指し。宗師というのは善導のことを指します。
論主の解義と、宗師の勧化という部分の「解義」と「勧化」という問題に触れますとここだけで長くなってしまいますので今回はここには触れずに、解釈をしますと、ようは親鸞聖人は世親と善導に依って「久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る」となるわけです。
「双樹林下」とは、お釈迦様が入滅する時、近くに2本の木があったのがその名前の由来らしいですが、つまりはお釈迦様の入滅を指します。お釈迦様の入滅はいうなれば、悟ったものの穏やかな死といいますか、「やることはやったし、思い残したことはない」といって死んでいくという悟ったものの理想的な死の迎え方です。
しかし人間というのはそんな穏やかな死を迎えるということは難しいわけです。むしろいやだ!死にたくない!というのが自然です。
だから親鸞は言い換えれば、お釈迦様の悟り、お釈迦様のように死んでいくなんて無理でしょう。人間がそこにいたるなんてことは難しい。お釈迦様だからできたようなものの・・・ということではないかと勝手に解釈します。
ではどうしたらいいかということになるわけです。
ここからが私の解釈ですが、親鸞聖人の生き方に照らし合わせてこの三願転入を考えてみたいと思います。
まず先ほども書きましたが、お釈迦様が悟りを開かれたらしいぞと。そして穏やかに入滅をされたらしい!という話をきいて。多くの人がわれもわれもとそこを目指します。それ比叡山だ!比叡山で修行だ修行!というわけです。
親鸞聖人も長い間比叡山で修行をされました。
このあたりが三願転入の三願のうちの「19願 至心発願の願」を指すのではないでしょうか。経典でいえばここの教えの背景には観無量寿経があると思います。つまりは、「わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません」という仏陀の教えにスポットを当てるわけです。
そして功徳を積んでそこを目指すわけです。
しかしここで問題が、功徳を積みたくても積めない自分にぶつかるわけです。さらには弱い自分が浮き彫りになるわけです。人間いきていれば食わなきゃいけないし、楽もしたいし、この現代では功徳だけを積んで生きていくなんてできない・・・
こりゃもうだめだ比叡山をおりよう。おれは弱い人間なんだ・・・ああだめだ・・・おれは駄目な奴だどこかに引きこもってしまおう。と心を悩ませて親鸞聖人も山を降りられたのではないかと思います。そしてほんとに六角堂にこもるわけです。
この六角堂では久世観音がでてくる話などあるのですが、そこはちょっと今回はおいておいて、そして一人悩んだ親鸞聖人・・・もうお坊さんやめようかな。とか思ったかもしれません。自分なんかが悟りを開くなんて・・・と。
そこで右往左往しているときにお念仏に出遭うわけです。いいかえればここで阿弥陀仏と出遭うわけです。
ここで19願と20願の変わり目かもしれません。自力で修行しても功徳を積んでは崩れ積んでは崩れ・・・そこで阿弥陀さんが言うわけです。
「わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません」
言いかえれば、大丈夫ですよ。そういう弱い人間でも。とにかく私の名を呼びなさい。そしたら救ってあげますよ。私の住んでる極楽浄土へ想いをめぐらせなさい。そして10回でも私の名前を呼べばそれで全部チャラにしてあげますから。ということではないかと思います。
ここの背景にあるのは、阿弥陀経です。阿弥陀経には極楽浄土の様子が事細かに記されているわけです。極楽を想像して私の名前を呼べばいい。というのが20願の指すところではないかと思います。
それに出遭った親鸞聖人は、涙がでるほどありがたかったと思います。そしてお念仏の道へ入っていくわけです。とにかくお念仏だ。念仏を唱えよう。
なまんだぶつなまんだぶつ・・・・なまんだぶ・・・
なまん・・・だぶ・・・
やっと自分の救われる道を見つけた!と意気揚々とお念仏を長い間唱えているときにふとまたダメな自分が顔をだしてきて頭をよぎってしまうわけです。
これで本当にいいのか・・・お念仏さえ唱えたら極楽にいけるというけれど、本当かな・・・しかも極楽にいけるはずなのに・・・私は全然うれしくないぞ。そもそも極楽とは本当にあるんだろうか・・・
と親鸞聖人感じてしまうわけです。とても感受性のすぐれた素直な人だなと親鸞聖人のお人柄が偲ばれますが、お念仏に出遭い真宗門徒として生きている自分も含め、ほとんどの人がまだここの段階で足踏みをしているのではないかと思います。
そこでハッとするわけです。阿弥陀様があれだけ救ってくれると言っているのに・・・極楽なんてすばらしいところを用意してくれているのに、自分はそれすら疑ってしまう。本当にダメなやつだ。これじゃ比叡山を降りたときと同じじゃないか・・・ああもう自分は救いようがないな。阿弥陀さんももう愛想つかしちゃうだろうな。と落ち込むわけです。
するとにこにこして、いやニヤニヤしながら阿弥陀さんが言うわけです。
本当にあなたは駄目な人だ。どうしょうもない。と追い討ちをかけるようなことを言うわけです。でも最後に一言。
でもね。それが人間です。そんなことは想定の範囲内ですよ。
あとは全部まかせなさいと。
するとその言葉にお腹の底から何かが湧いてくるわけです。おおお阿弥陀さん・・・・と涙まででそうな勢いです。
この「阿弥陀さん」という声。これこそが真実のお念仏になるわけです。はじめに私の名前を唱えなさいといって呼んだ「阿弥陀さん」とは全くの別物です。
そしてさらに気づくわけです。ああ。極楽を用意してますよ!しかも名前さえ呼べば救われますよ。とあえてそんなわかりやすいことを用意したのは、それでもどれができない。そんな簡単なことすらできないということを自ら気付かせるためだったんだ!!というわけです。そこであの極楽浄土というものが方便であったとも気付かされるわけです。
いままでのお念仏はつまりは難思往生、つまりはそこはまだ自力であり、真実ではなく方便の1つであったわけです。
ここで初めて18願に至りその心をお腹の底から味わうことができるのではないかと思います。この20願から18願へのかわりめをまさに聖道浄土のかわりめありというのかもしれません。
「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」
ああ理屈じゃないな。阿弥陀さんの懐は自分が思ってたよりも深く、自分の想像できるようなもんじゃなかったんだ。奥が深すぎるな。結局は掌の上だったんだと気付かされ難思議往生に至るわけです。ここの背景には大無量寿経というお経があります。
つまりはもうお任せするしかないんだな。理屈こねるのをやめよう。考えても考えても所詮すべては阿弥陀様のおはからいの中なんだということに深く気づかされるということではないかと思います。そしてすべての出来事は阿弥陀さんのおはからいなんだと思うことですべての出来事にはもう意味があるわけです。そしてそこに感謝の念がわいてくると。
ここまで考えましてもう一度冒頭の一文
ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思義往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。
なんとなくいままでの流れをみますとはじめよりもすっと自分の中に入ってくるような気がします。
最後は理屈こねてるんじゃないんですね。本当にこの三願転入というものを紐とくに、親鸞聖人という人のお人柄、また真宗の奥深さというものに素直に感情移入できるような気がします。またお念仏に生きていくという上でこの心の変化、この順序というのはとても重要な部分ではないかと感じます。
自分なりのご領解ではありますが、三願転入について述べさせていただきました。
遠藤 正樹
25日掲載拝読させて頂きました。達意の意訳は大変助かります。自分は自然に生まれたのであるから多分自然に死ねるかなと今の処、のん気に構えております。ただ、愛するものたちとのさよならが辛い。又、残されたものたちの哀しみを思うともっと辛い。ですから生きているときは思う存分生きて、周囲のものたちから見てもいい人生ではなかったかなと思ってもらうことでなんとか凌いでいけるかなと思っております。
お寺さまがお側にいてくださり、いわば土俵の俵の如くそこに居てくださることが心の支えです。
遠藤 拝
副住職
思う存分にいきるというのはいい響きですね。
側にいてくれるのはお寺というよりも阿弥陀さんなのかもしれないです。お寺はその窓口みたいなものなのかもしれないです。
土俵の俵の如くというのはなにか心強い響きですね。
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最後は理屈こねてるんじゃないんですね。本当にこの三願転入というものを紐とくに、親鸞聖人という人のお人柄、また真宗の奥深さというものに素直に感情移入できるような気がします。またお念仏に生きていくという上でこの心の変化、この順序というのはとても重要な部分ではないかと感じます。
菊池 法昭
鸞聖人の十八願への回入はいつ頃と捉えれば宜しいでしょうか?吉水での法然上人との出会いで十九願から二十願に入られたと理解するのが自然と考えられます。十八願へは『選択集』書写された頃でしょうか?それとも四十二才とか五十九才辺りでしょうか?ちょくさいに質問させて戴きます
副住職
十九願から二十願が親鸞聖人の生涯の中でどこであったかについてはいろいろな議論がなされているところですね。52歳とは教行信証を書かれた頃ですね、42歳のころは浄土三部経千回読誦の頃ですね、59歳には千回読誦を回顧されるわけですが、自分の気持ちといいますか感覚的な部分ですが、十九→二十→十八への移り変わり、中でも二十願から十八願への変化というものを後世の人たちが聖人の生涯にあてはめて考えるときに、はっきりとここから変わる、と線がひけるようなものではなく、少しづつ思考が行動に、そして生涯のお言葉の中に涵養してくるようなゆったりとした変化なのではないかと感じております。
この変化は一直線の変化というよりはもうすこし境界の曖昧中で一進一退をしつつ、3歩進んで2歩下がるようなイメージをもっております。
どこで十八願へ・・・と考えるのであればそれは、起点となるのはやはり、選択集を書写された時、千回読誦の時、または教行信証を書かれた時なのかもしれませんが、そのすべての点が線となり少しづつ「確かな」ものになっていくようなイメージをもっています。
自然法爾という言葉に至るまでの時間、出来事や出会いのすべての点が一つの線になり、信仰が深まっていく、そしてその深まりを体現する姿勢こそが宗教または信仰の大切な部分のように感じます。
うまく伝えられないのですがもしかすると本当の意味での十八願への転入は臨終の際だったのかもしれないしそれはわかりません。
しかしながら聖人のご生涯をたどる中でその言葉や行動の軌跡ひとつひとつ味わいながらその変化を感じさせていただくことで自身の味わいを深めていけたらと思います。
質問の答えになっていないかもしれませんし、文章で伝える力不足で申し訳ありません。ご質問ありがとうございました、私自身あらためて考えるきっかけをいただけました。