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あるお寺の坊守様が、癌で闘病をされ、亡くなるまでの間の心境を綴った本を読みました。その中に、「ベット」と題された短い詩のような文章が載っていました。
説法はお寺で
お坊さまから
聞くものと思っていましたのに・・・
肺癌になってみたら
あそこ ここと
如来さまのご説法が
自然にきこえてまいります
このベッドの上が
法座の一等席のようです
この短い文章の中に真宗の大切な部分がすべて詰め込まれているような気がしました。
お念仏や、本願、他力ということを、言葉や理屈や、分別や理解の中で伝えていくのはとても難しいことです。やっぱりまずは自分の中にしっかりと真宗を味わい、お腹に落として生きていくこと、それだけでもう十分その生き方が利他につながる、それが自利利他ということなのかもしれないと感じました。
遠藤 正樹
9月9日掲載拝読させて頂きました。利他と言う文脈をどう解釈すべきか、私では理解が及ばない処がありますが、仰る趣旨には共鳴致します。宗教にも厳しい修行、荒行を課す宗派がありますが、健康で、不自由が無い人、ある種恵まれた人々は仰る意味での『心境』にはなかなか到達出来ないのでしょうか。辛さを乗り越えるプロセスがどうしても必要なのでしょうか。修行、荒行の真意は何処にあるのでしょうか。逆に言えば、健康に悩み、辛い状況に置かれた人々は、そうで無い表面恵まれた人々に比べて、より早く『心境』に到達できるものでしょうか。様々な事情を抱えた様々な人々を悟らせることはそもそも人間技で可能なものであるのかどうか、非常に深い課題だと思います。 個人的には死を切実に意識することでしか悟りの境地には至れないと感じております。遠藤 拝
副住職
遠藤様、今回の御意見大変ありがたいご意見です。
>様々な事情を抱えた様々な人々を悟らせることはそもそも人間技で可能なものであるのかどうか
この質問に真宗の大切な部分が全部入っているような気がします。
阿弥陀仏は、修業などを積んだ、そういう一部の人だけが救われるのでは意味がない、すべての人を必ず救う方法があるはずだとお考えになられて、その方法を見つけられた。
これが真宗の根底にあります。
また、>死を切実に意識することでしか悟りの境地には至れないと感じております。
この部分もそのとおりだと思います。生死の問題をいかにうけとめていくか、これが仏教の根底であり、真宗の根底でもありますね。
真宗に修業がない理由、また非僧非俗のいみ、真宗のお坊さんが有髪であること、またお釈迦様の説かれた中道の意味。
ここには書ききれませんが、お会いする機会がありましたらお話しできたら嬉しく思います。
ありがとうございました。