寂円寺徒然日記
原因と結果

 

自分が考えた末に出した答えや行動で必ずしも物事が好転するとは限らなくて、逆になにも考えずにした行動や言葉で何かが劇的に回りだすことがあって。

自分が迷った末にだした結論が、誰かにとっては最悪な答えであることもあれば、なにも考えずに発した言葉が誰かの救いになることがあるわけで。

自分が正しいと思ったことも、側面にしかすぎなくて、自分の発する言葉はいつだって、しったかぶりの、向う見ずだったりする。

必ずしも、結果につながる要因は自分からうまれたものではないことの方が多いのかも。なんて深々と冷え込む夜道を歩きながら思って。

はて。一体いままで、自分自身の力だけで、なにかを変えられたことなんかあるんだろうか。と思って、もしかしていままで、そんなことは何もなかったのかもしれないと思ったら。

なんかものすごく、自分は自分で、思ってるより無力なのかもなと思って、そんなこと言ったら、なんにもできないし、がんばる意味なんてあるのかなと考える。

なにかを発言することも、結局は独りよがりなのかもとか自虐的に思ったころに、心が反作用して、それって、考えようによっちゃすごく楽なことなのかもしれないというところで落ち着く。

好転するかしないかわかんないんだから、もうそんなこと気にして行動しなくてもいいのかもって思って、そこに出た結果は、やり直したとしても同じ結果が出るかもわかんないわけで、結果はそこにあるものがすべてで。

だから、なんか。

それで失ったものは、失うべくして失ったもので、いまあるものは、得るべくして得たもので。

大切なものを、がんばれば維持し続けられるかといえばそうじゃなくて。失ったものはもう手に入らないかといえばそれもそうじゃないのかもしれなくて。

なんか。

思うに、先の先を見ようとしてきて、物事に関わる要因を、側面的で断片的にならないように、意識して意識して、がんばってがんばって視野を広げようとしてきたつもりだけど、なんか最近、これは自分の手に負えることじゃないかもって思うことがある。

目の前のたった一つのこと。

なんでもいい。

大きなことも小さなことも。

ほんとに自分には思いもよらない要因が重なってそこにあると、最近本当に心からそう思うことがあります。

 

副住職

 

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