寂円寺徒然日記
仏教の役割。

こないだあるお寺の方が、命の大切さを説くのが宗教の役目であるし、命の尊さ説くのが仏教の役目であるとおっしゃていました。

でも自分はそうは思いません。

宗教は生命よりも大切なものがあるということを考えるためのものだと思う。それに仏教は生命の尊さを説くものではないと思うし。生命が一番大切だという考えこそ、宗教や仏教を通して正さなければいけない考えじゃないかとすら思いました。

こうかくと誤解を招くかもしれませんが、生きていることよりも大切なこともある。

それは何かの大義名分があれば死んでもいいというのではないし、簡単に命を粗末にしていいということではなくて。生命至上主義になって、命を一番上に置いてしまうと、見えなくなってしまうことがあるという意味です。

延命の問題も、尊厳死の問題も、移植の問題も、輸血の問題しかり。

日々の生活の中で、人は生きることには必要以上にスポットをあてるのに、死にはあまりスポットをあてない、そして生きてることだけが素晴らしい、長く生きれること、命があることこそが最高だという価値観を知らず知らずに刷り込まれています。

その価値観が疑いようもないものになると、2つあるなら片方の腎臓をもらえばいいんじゃないかとか、死んだ人からなら角膜を移植すればいいじゃないかとか。豚から臓器をつくって移植すればいいじゃないかとかいう議論を平気でするようになる。

うまく伝えるのが難しいのですが、なにがいいたいかというと。

統一された価値観に依るというのは危険なことだと思うわけです。

例えば、生きてることだけが素晴らしい、長く生きれること、命があることこそが最高だという価値観を知らず知らずに刷り込まれた人は、きっと長く生きられない人をかわいそうだと思って、長く生きられることが幸せに決まっていると思うわけです。

もっといえば、お金があれば幸せだと思っていれば、途上国の子どもをみてかわいそうだと思うだろうし、アフリカの人をみてかわいそうだと思ってお金をあげれば幸せになれるんだと思う。

健康なことが幸せだと思えば、病人をかわいそうだと思い、五体満足であることが幸せであると思えば、ハンディを背負った人をかわいそうだと思って、容姿がいいことが幸せだと思えば、そうでない人をかわいそうだと思う。

他人の事ならかわいそうで片付けて、自分にそれがふりかかれば、なんて自分は不幸なんだろうと思う。

なんでお金がないんだ、なんで病気なんだ、なんで五体満足じゃないんだ、なんで容姿が悪いんだ、なんでなんでと思うことでしょう。

人間は価値観に支配されてる、自分の価値観でしか物事を判断できないし、その価値観に外れるものは拒絶するか、目をそむけるように生きている。そしてあわよくばそれを人に強要したがるわけです。

それをやめろといわれても無理だけど、せめてそれを知っているか知らないかが大事なんだと思います。

仏教の役目は生命の大切と尊さを説くことなのではなく、またどこかの価値観にとらわれて、そこに重きを置くような考え方をするのではなく、

むしろ、そういうところに落ち込んで、なにかに偏ったりとらわれてはいけませんよ。というのが仏教の役目なのではないかと思います。

世の中に平均的な価値観をつけて不平等を生みだすことが習慣化してしまうと、、勝ち組とか負け組なんて言葉が生まれ、その平均にならねばならないという閉塞感が、人から生きる活力を奪ってしまうのではないかと思うのです。

仏教はどこであれ、だれであれ安穏と生きられる方法を教えるべきものだ。

なんてことを悶々と考えながら帰ってきたわけですが、こういうことを思うたびに自分の中にある仏教が少しづつ形になってくる気がするのです。

 

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