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仏教の中で平和をどうとらえるかということを考えていて、ある方は、やはり無条件に平和が一番!仏教徒なら当然そういうスタンスでいるべきだといいます。
もちろん自分も、たくさんの方から戦争の話を聞かせていただく機会があり、その中で戦争の悲惨さ、愚かさを感じますし、むろん断固として反対をしたいと思います。
しかし、そんな時にある本の中にのっていたお釈迦様の逸話が目にとまりました。
お釈迦様の祖国カピラヴァストウが隣国のコーサラー国に滅ぼされそうになった時、コーサラー国の軍隊が、カピラ城(ブッダの祖国)へ行軍する途中の道にお釈迦様は座して軍隊を止めたといいます。
さすがにお釈迦様を、踏み倒して行軍することはできずに、コーサラー国は一度行軍を引き上げます。
しかし数ヶ月後にまたコーサラー国は2度目の行軍をします、しかし2度目の行軍の時にもお釈迦様は道の途中に座しているわけです、そして3度目の行軍の時にも、ブッダは、行軍する間の道に座していたといいます。
さすがにお釈迦様をを無視して行軍するわけもできず、コーサラー国は3度目の行軍もあきらめその道を引き返すわけです。
しかし4度目の行軍の時にはブッダはそこにはいなかったのです。そして軍をすすめたコーサラー国はしシャカ族(ブッダの祖国)を滅ぼしたわけです。
この時弟子の目連さんが、神通力で行軍を止めようとしたら、ブッダはそれを制して、もういいのだ。といったといったそうです。
この3度しか座っていなかったことから、仏の顔も3度までということわざが生まれるわけですが、この逸話の真意は、すべての物事には因果があるということであり、因果といういうのは、人間の手におえるほど単純なものではないということなんだろうと思います。
そしてまずは自分の中の中にある因果に目を向けることなのではないかと思います。
ブッダが無条件に戦争は反対!仏教は平和が一番!だと思っていたのなら、神通力だろうとなんだろうとつかってでも、行軍を止めたんだろうと思います。
しかしお釈迦様はそれでは、本当の意味の解決にならない、本当に平和を望むのであれば、しっかりと自分自身に目を向けることであることが大切であると説かれているような気がします。
戦争とか平和を考えていると、仏教徒のとるべき姿勢とはどうあるべきなのか悩むことがあります、その時に、この話を思い出します、この話は現代でもそのまま通用する教えじゃないかと思うのです。
仏教は時に厳しく、時に優しいと思います。
そして、すべてを見通した上で、その因果を悟っていたとしても祖国への想いから3度だけそこに座して行軍をとめたというところが、なによりも仏教の魅力であるような気がします。
遠藤 正樹
副住職さま
平和について、拝読させて頂きました。SLOGANで何とかなるほど甘くはないですね。何事であれ人の出来ることはたかが知れていると思いますが、出来る範囲内でコツコツと努力していくしか無いし、その挙句の結果もどうなるかは分かりません。ですから努力するプロセス自体を楽しもうと心がけております。
遠藤
遠藤 正樹
副住職さま
昨日の報恩感謝の読経では僧侶の皆さまの気合がビシビシと伝わって来ました。プロは凄いなと思う瞬間です。和楽器、インド楽器とも見事にハモっておりいろいろな発想があって然るべしと改めて勉強させて頂きました。今後とも常識に拘泥しない企画を期待しております。兎に角メッセージは伝え無くては意味がありませんから。先ずは御礼まで。
遠藤
副住職
遠藤さま、先日はありがとうございました。こちらも初の試みと言うことでどうなることかと内心どきどきしていましたが、思ったよりもうまくいったように思います。「南無阿弥陀仏」も口に出してみてはじめてその言葉を自分の耳に聞くことができると言います。このような機会にお念仏にふれ、真宗にふれ、よりいっそうお寺を身近に感じていただけたら幸いです。