寂円寺徒然日記
伊達直人のランドセル。

今全国で、伊達直人という名前で、孤児院や施設にランドセルや寄付が届けられているそうです。日に日にその数は増え、マスコミでは現代の美談として連日テレビでも取り上げられているようです。

その件について、友人が何か違和感があるよねと話しているのを聞いて、その件について自分なりにも考えてみました。

なにかすぐに自分の手の中にあるものと結びつけるのは悪い癖だと思うのですが、これこそまさに親鸞聖人の述べられた「悪人正機」のいい例ではないかと思います。親鸞聖人は、「善人なをもて往生をとぐいわんや悪人をや」と述べられました。自分なりに要約するなら、善人だと言われている人が救われるのだとしたら、当然悪人が救われるはずだということだt思います。

一見おかしなロジックに見えますが、今回の伊達直人の件にぴったり当てはまるような気がします。

伊達直人の名前で寄付をしていることが美談として取り上げられて、それをしている人が善人だとしたら、なにか違和感を感じるな、だって相手にだって都合もあるのだろうし、一方的にそれを押しつけるのもどうかと思うし、他にもたくさんの寄付者がいるのに無名の人たちだけにスポットがあたって、こういうときだけ美談として取り上げるのはおかしい。自分って冷たいしひねくれてるのかな・・・と感じる人がいたとしてその人は善人ではないのかといえばそうではないはずです。

伊達直人が善人であるとして、それに違和感を感じる人が悪人であるしたら、1つの美談になんの違和感もなく、善人だと思い込めることよりも、1つの問題を自分の中に落とし込んで、足下を確認しながら、ひねくれているんじゃないか、冷たいのじゃないかと自分を内省しながら生きている人が救われないはずはないと親鸞聖人は述べているのではないかと思います。

でもここで、じゃあ自分は自分を省みてるから救われているんだ、と開き直ればいつだって自分も伊達直人になってしまうわけで、それを「本願ぼこり」といって、元も子もないぞということになります。

浄土真宗の中で善行とはなにを指すのかという定義は難しい問題です。もちろん今回の件で、無名で寄付をするという行為はとても心温まる話ですばらしいと思います。

だだ人間というのは気を抜けば、簡単にその大義名分の上に胡座をかいて、簡単に本分を忘れてしまう生き物であることを頭の片隅においておきなさいよと言うことだと思います。そしてそれは他人事ではなくいつだって自分の中にあるということを肝に銘じておこうと思いました。

いい行いをすることは大事だけど、いい行いとは何であるのかというところに言及をすること、そこに自分なりの想いを巡らせて生きる姿勢というのが仏教的な生き方なのかもしれないと思いました。

 副住職

 

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