寂円寺徒然日記
2011秋彼岸法話

ある僧侶の団体が被災地にいった時に、一人の老僧がコメントを求められたそうです。


その時その老僧は一言、ああ、地震の時自分はここにいなくて本当によかった・・・思わずとつぶやいたそうです。


その発言を聞いたに周りの人たちはびっくりして、その発言を不謹慎だといったそうです。もしかすると、これが大臣かなんかの発言であれば、間違いなく辞任に追い込まれたかもしれませんし、たしかに言葉が足りなかったと思います。


しかしこの話を聞いたときに自分の中で真宗的であると感じました。


正直言えば、みんな心のどこかで思っているのです、自分でなくてよかった、自分の家族が無事でよかった。それは悪いことではありません。当然のことだと思います。


しかし、そんなことを口に出せば、被災された人たちに配慮が足りない、不謹慎だといわれてしまいますし、わざわざ口に出すことでもありませんし、テレビやメディアでも、そんなことは流しません。そして、がんばろう!日本 顔をあげて応援しよう! 負けないで! というキャッチコピーを掲げて日々東北へ向けてメッセージを送っているわけです。


しかし、本当の所、ここにいる私たちがどれだけ、今回の事を我が事として受け入れられているのか。ましてや東京にいる自分にとっては今回の震災の被害、東北の状況というのは、表面的で、情報だけを自分の中でイメージしたに過ぎないのです。


しかし、現地に足を運んで心から自分がここにいなくてよかった・・・と安堵する気持ちの裏側にあるものは、自分がそこまでに感じたその場所にいた人がいるのだということをしっかりと自分の中に認識したということになるということになると思います。その認識や自覚があってはじめて人間は痛みや悲しみや苦しみに寄り添うことができるのだと思います。


自分は日本がんばれ!というキャッチコピーに共感しますし、東北をなんとかしたいと思っていますが、きっと現地で、ここにいなくて本当によかったとつぶやいた人の半分も震災を実感できていないと思います。


感情の一部分でも自分の中で共有できなければ、本当の意味で被災者の心に寄り添うことができないのかもしれません。


だから自分とその人とどちらが東北の人の心に寄り添えるかといえば、きっとその方だと思うのです。


この話をきいてなにがいいたいかといいますと、表向きに見える言葉や、行動だけがすべてではなく、本当の意味で大切なことというのは、案外どこに落ちているかわからないということ、そして自分の中に湧いてきた感情をしっかりと受け止めるということは大切なことであるということです。


その人の発言だけをとりあげて、ああいう不謹慎な発言をしている人間は駄目だ。自分はそんなことはいわないよ!被災者のことを思って毎日がんばれ!と声をかけているからね。というのでは、本末転倒ではないかということがいいたいのです。


この方は津波の被害を見て、その壮絶さに、自分がそこにいなくて本当によかった、自分は直接被災しなかったというその御縁が自分にあったことをかみしめ、そしてその場所で多くの人がいたということを、自分のことのように心を痛めたのではないかと思います。


この話を聞いたときに、悪人正機という言葉を思い出しました。


歎異抄の3章の冒頭にでてくる一文に「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という1文があります。意訳しますと、善人が救われるというのならば、悪人が救われて当然だ。つまりは阿弥陀さまはそういう区別なくあますところなくすべての人を救うということになります。


普通はであれば、悪人が救われるなら善人が救われるなら当然だ。というならわかりますが、親鸞聖人はまったく正反対のことをいったわけです。なぜそのようなことを述べたのかというところを考えていきたいと思います。


まず悪人をイメージしてください。と言った時に多くの人は、泥棒や人殺しなどの犯罪者や、さらには人相や柄の悪い人をイメージしるのではないでしょうか。そうしますと逆に善人といえば、温厚で穏やかで、にこにこした、人をイメージするのかもしれません。


しかしそんな漠然としたイメージだけで多くの世間一般的な善や悪というイメージというのはわかっているようで、実は曖昧で確実な基準というのはないわけです。


最近節電ということがいわれていますが、ある人がエアコンをとめて汗だくでテレビをみながら、エアコンの中で涼しそうにしている友人に、エアコンを止めるように強要したそうです。


自分は汗だくで節電しているのに、なんでおまえだけ涼しげな顔をしているんだといったそうです。しかしその話、実は本当のところをいいますとテレビの消費電力というのは思いの外大きいそうです。ですので、汗だくでテレビを見ているよりも、涼しげに本を読んでいる方がはるかに節電になるそうです。


これは例え話ですが、このように、いいことをしようという気持ちは大事ですが、自分の想像してない部分や、本当の所で、その行動は必ずしもいい結果に結びついていない場合というのもあるのです。


親鸞聖人も歎異抄の後序の中で善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。と述べています、つまりは善と悪このふたつはなにがよくてわるいかは自分の知り及ぶことではないということです。つまりは私たちのする善悪の区別や判断などあてにならないし、絶対でないということを述べているわけです。


現代は情報社会です、自分もそうですが、テレビをみていて、あいつは悪い。こいつはいいなど、だれかがだれかを判断して、あたかもその価値観があたりまえであるかのように蔓延しています。自分はしっかりしているから大丈夫だ。自分でしっかり判断してる。


自分には関係ないとおもっていても価値観までも刷り込まれてしまう時代です。いつその中に自分がはいっているかもわからない。そして知らないところでたくさんの犠牲をしいているかもしれない、大きな勘違いで悲しむ人を生み出しているかもしれないという事実がここにはあるわけです。


阿弥陀仏はそういう人間の勝手につけた善とか悪とかそのような区別など一切関係なくもっと大きな目で私たちをみてくれているわけです。そして人間は自分の思うとおりにいいことやわるいことをすることすらもできないものだといいます。そしてだからこそすべての人を余すことなく救うと述べているわけです。


これを頭で理解するというのはなかなか難しいことです。


それはなぜかといえば、一番見えにくく一番近くにいて一番遠い存在が自分であり、それが人間だからです。


一番はじめに、悪人をイメージしてください。といいましたが、そこでまず自分も顔を思い浮かべた人はいないと思います。それくらい人間というのは自分以外のことが見えていないわけです。自分はあんな人間ではない、自分がそんなことをするはずがない。さらには自分の身にそんなことが降りかかるはずがないとたかをくくって生きているものです。


清沢満之というかたの言葉で「宗教は自覚である」という言葉が少し前まで門前の掲示板にはってありましたが、真宗の入り口、さらに宗教の入り口というのはまずは自分自身に目を向けることですです。自らの身をただしい目で見て凡夫であることを自覚をするということが大切なのではないかと思います。さらにいえばこの自覚というのは、目の前にある事実を他人事としないで自分の中にしっかりと落して考えるということでないかと思うわけです。


自分の中に湧いた気持ちをしっかりと目を背けずに向き合うこと、そして素直に自分をしっかりと自覚するということは真宗においてはとても大事な事です。


話は初めに戻りますが、この老僧の一言「ここにいなくてよかった」と湧いてきた気持ちをしっかりと受け止めて、そんなことを感じてしまう自分だからこそ、救われるべき存在なのだ。と一歩足を突っ込んで考えるのが真宗の大切な部分であるわけです。


それが真宗でいう聞法の入り口であり自力を離れ他力に依るということなのではないかと思います。その自力の無力さをしり他力を知ることを回心といいます。


その深い自覚を感じ回心した時に初めて自力いうものの無力さを痛感するわけです。そして本当に正しいことなんていうのは自分の手の終えないところにあるかもしれないということを知ることで、謙虚に、そして日々を寛容にいきることができるのではないかと思います


そして自分の手に負えないことだからこそ、 救われるしかない自分に深く気付き、そこで初めてに阿弥陀仏の本願に灯が灯るわけです、そしてそう感じた自分の中から、お念仏があとから自然と口をついてでるわけです。


南無阿弥陀仏


このようなわが身を一切おまかせいたします。といういみです。わが身をおまかせして目の前の現実に深く手を合わせしっかりとそれを受け止めて生きていく。その心の中、その姿の中に阿弥陀様がいるのではないかと思うわけです。


今回このお彼岸という日を機縁に自分自身も改めて見つめ直す機会をいただければと思います。とてもこの時間の中には語りつくせないものがあります。そんなとても難しいテーマでお話をさせていただき自分自身まだしっかりと受け止めきれていない部分もあり、たくさんの疑問も抱える中でわかりにくく伝わりきらなかった点もたくさんあったかもしれません。最後まできいていただきありがとうございました。


副住職



 

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