寂円寺徒然日記
嘘をつくということ。

幼稚園にいると子どもたちがあからさまに嘘をつくという場面にでくわすことがあります。

叩かれてもいないのに叩かれたとか、本当は自分にできないことをできるとか、悪いことをしてしまったのにしてないとかいうことはよくあります。

子どもと関わる上で、このような嘘にどう向き合うかということはとても大切な事で、現場にいて感じるのは、子どもが嘘をつくときというのは、その子を知る上でとてもチャンスだということ。

あからさまに嘘をついている子どもをみると、ついどうしてそんな嘘をつくのか、平気で嘘をついていると嘘つきの子どもになってしまうから、それだけは厳しく注意しなければ、親であれば、どうしてこんな子になってしまったのか、育て方を間違ったかなどと思ってしまったり、つい嘘をついたということにばかり目がいってしまいますが、幼少期につく嘘のほとんどはここで直さなければ平気で嘘をつくようになってしまうなどと思うまでもないようなもので、ずるがしこく、人を陥れるような類のものではないので、たいして心配するようなことではないと思います。

それよりもそこで大事なのは、なぜそんな嘘をついたのかということにしっかりと目を向けることです。なぜ叩かれてもいないのに叩かれたというのか、なんでできないことをできるというのか、どうして目の前で悪いことをしたのに、平気でしらをきるのか。

そこにはたくさんの子どもからの想いがこめられていて、それは「もっと自分をみてほしい」とか「さみしい」とか「ほめられたい」とか「おこられたくない」「認めてほしい」の裏返しであることがほとんどで、その原因をつくっているものはなんなのかということを考えなければならないと思います。

その原因は親にあるかも知れない、友達関係の中にあるかもしれない、弟や妹が生まれたことかも知れない。いづれにせよ子どものつく嘘はその子のおかれてる状況や環境を映し出す鏡であるし、むしろ嘘という形で、表にサインがでてくるほうがありがたいことなのかもしれません。

そのサインを見落とさずに、しっかりとひろうということが「育てる」ということなのではないかと思います。これは子育てに限らず「育てる」ということはすべて、サインを見落とさずにしっかりとそれをひろって紐解いていくということなのだと思います。

幼児教育と仏教がとても似ているなと感じるのはこういう部分で、仏教のいう因果とはまさにこういうことで、因果を考えるということの矢印を子どもではなく自分自身に向ければそれはそのまま仏教になります。

なぜ苦しいのか、なぜ妬むのか、なぜ嘘をつくのか。

自分を自分たらしめるものはなんなのか、それを紐解いて、そしてその自分とどう向き合っていったらいいのかということが「教え」ということになるわけで、そのための方法論が教典にかいてあるわけです。

その中で、最近、教典というのは教科書のように、教典を読んで自分の生活に照らし合わせるのではなくて、まず自分の生活を見直してみて、そこから湧いてきた疑問や苦しみをしっかりと認めた上で、教典の中にその解決策を探すいう順序ではなければならないのだということを強く感じるようになりました。

微妙な違いなのですが、教典はマニュアルではないので、漠然とその通りにしたら何かが変わるかといえばそういう類のものではなくて、それはあくまで過去の先人達の生き様や思考の集大成であり、例題集であるわけで、自分の中の問題点はなんなのか、いま自分をとりまく環境はどうであるのか、それを考えるということが前提になければなんの意味もなさないように感じます。そこから自分はどの教えを選択していくのかということにも繋がっていくのだろうと思います。

仏教であれ、幼児教育であれ、そこにはまずしっかりと心の中へ目を向けていくという姿勢が大切なのだと感じます。

副住職

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