寂円寺徒然日記
深度。

子どもというのは、何回同じ事を注意しても同じ事を繰り返します、何度も同じ失敗を繰り返すことも少なくありません。今言ったことも3歩歩いたら忘れてしまう。ニワトリもびっくり。

子どもたちに小言をいいながら気づかされたのですが、自分の注意することは、いつもまだきてない未来の為の事ばかり。いつか大人になったときにそんな食べ方では恥ずかしいよ。後ろ前の服をきてたら気づいた人に笑われるよ、目を見て歩いていないと電柱にぶつかるよ。

どれも先の心配していう小言であって、それはいわば転ばぬ先の杖。自分は大人だから、いままでの経験の中で、おそらくそうなるであろう予測をして、そうならないようにと杖をだしているのだけど、子どもからしたら、今目の前にあることや、この世界は新鮮な刺激ばかりで、まだきてないことなんかに心を巡らせてる暇なんてないのかもしれない。

だからなにをしてもいいというわけではないのだけど、この大人と子どもの視点の深度の違いの中には、それぞれメリットとデメリットがあるように感じます。

大人になると、数時間先、数日先、数年先のことを考えるようになる、実際最近友人と話していても、何年後かの自分を想定して、結婚するなり、家を買うなり、引っ越しをするなり、転職をするなり、自分の身の置き方を考えながら今を行動しているし、一杯飲んでいたってそんな話題で持ちきりになることも少なくない。

無論30も超えれば、刹那に生きるなんてことにあこがれはするものの、一か八かで生きることが出来る人なんて一握りで、先のことを考えて行動しないと、困る事も失うものもたくさんある。

でも最近思うのは、苦しみや悩みのほとんどは、そのまだ来てない先の自分の身の置き方や、ありもしない自分のあるべき姿のことだったり、もしくはそこから生まれてくるギャップによるものばかりのような気がします。先を見据えた目のスパンが長くなればなるほど、苦しみや苦悩の種もふえていくように感じることがあります。

それに対して子どもの視点の深度はとても浅い。どんなに長く見積もっても明日か、明後日、来週のことまで考えて行動できればりっぱなものです。その分今をしっかり受け止めて、今の幸せ、今の楽しさや、今の心地よさを見つけて、感じる心は大人の何十杯も敏感だし上手だと思います。

そしてそのメリットがあるからこそ、小さな身体で、この社会の荒波にこぎ出すことが出来る。経験や知識がないまま航海に出ることは大人の思うよりもずっとエネルギーを使うし心も消耗する。だからこそ視点を浅く、今のすばらしさを感じる感受性が豊かなのだと思う。なによりも世界が眼にキラキラとうつらなければ足をだせないのかもしれません。

この大人と子どもの視点の深さにはそれぞれにメリットとデメリットがあって、社会でいきていく以上、いつまでも子どもの視点のままでもいられない。でも大人の視点で物事を考えることの方が優れているかといえばそうでもない。

子どもの心がしっかりと育つ前から、はやくに先を先を考えて、数年先の事を見据えるような視線をみにつけてしまうと、それはぱっとみれば、良くできた優等生なのかも知れないが、それでは見落としてしまうことがたくさんあることを忘れてはいけないし、先を見据えたスパンが長くなればなるほど抱える苦しみが増えているのだということを忘れてはいけないのだと思う。いつだって苦しみや苦悩は、過ぎ去った過去かまだ来ていない未来からくる。

いつかの幸せの為に今の幸せを犠牲にしないというのは教育に関わるすべてにおいて忘れていけないことで、この瞬間から学べることはたくさんあるということをわからないまま未来を見据えることだけを教えるのは教育からは一線はずれてしまうのかもしれません。

子どもは子どもでいられるだけ子どもでいさせてあげたいものです。いつかその時が来れば必ず未来を見据えなければ生きていけなくなるのだし、あまり急いで大人にならなくていいし、大人の仕事は子どもに世界をキラキラと輝かせて見せることなのかも知れない。

なんてことを小言をいいながら考える自分が、大人になってしまったような気がして、喜んでいいのか悲しんでいいのかわからなくもなります。

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