園庭で子どもたちが遊んでいるのを眺めていてると、一人の子どもが「いち抜けた」といって遊びから抜けて他の遊びをし始めました。
そんな光景をみていて、ふと「いち抜けた」という言葉は実はものすごい言葉だなと感じました。大人になると諸々、本当に諸々のしがらみや関係が作用して、色々なものから「いち抜け」できなくなります。そんな「いち抜け」できないものの中にこそ苦しみが振ってくるように思います。
子どもたちがいとも簡単に「いち抜け」していていくのを見ながら、自分にはこんなにもいとも簡単になにかから「いち抜け」できるだろうか、いつか「いち抜け」できる日がくるのだろうか。はたまたいつにになってもできやしないのか。そんなことを考えてしまいます。
しかしながら本当に「いち抜け」できない理由は決して外的なものではなくて、どこまでいっても自分の内側からくるものなのかもしれません。それは、執着であり、見栄であり、こだわりであり、つまりは「欲」と呼ばれるものから生じるものであるように感じます。
そう考えますと、つまるところ「覚り」というのも「いち抜けた」であるのかもしれません。園庭で遊ぶ子どもたちを眺めながらそんなことを思いました。
副住職
遠藤 正樹
副住職さま
「いち抜けた」拝読させて頂きありがとうございました。
今回も深い話ですね。
飛躍しすぎかも知れませんが、親鸞聖人は比叡山で長い間辛抱されついに降りられたと存じます。
石の上に何年座っておれば次の展開が見えてくるのか。飽きたら背後の罵声は気にせずまずは出ていってしまっていいものか。実に難しいです。
遠藤 正樹
副住職
ほんとうにその線引きは難しいところですね、ただ個人的な気持ちとしては、「心の充足」という点についてのみに重点をおいて考えることができるのであれば、自分の居場所というのは自ずと心が教えてくれるのではないかと思います。
例えその結果に罵倒されようともそこで満足できるかどうか、自分の心に依ると身の置き方にもあらわれるのかなと思うことがあります。
釈尊も家出に近いかたちで多くのものから「一抜け」をされたわけですが、周りの気持ちを思えば罵声を浴びせたくもなったかもしれませんね。
遠藤 正樹
副住職さま
おっしゃる通り心の充足はありですね。
自分の本当のところを知ることが実は結構難しく、ご指摘あった通り、かくあらねばならないとか体裁がじゃまをしてなかなか聞こえてこないのではないでしょうか。ただいったん聞こえたら強いですね。本音に耳を澄ませなくてはと思うこのごろです。
遠藤 正樹