妖怪ウォッチが空前のブームのおかげで、最近身の回りで起きる不可解な出来事はたいていは妖怪のせいということで丸く収まることが多い。
保育室の蛍光灯がチカチカしても妖怪のしわざ。さっきまで使ってたおもちゃが見当たらなくなったのも妖怪のしわざ。降りたあとのブランコがしばらく揺れていているのも妖怪のしわざ。
それはただ電球が切れて、おもちゃを置き忘れて、慣性の法則だけの話なのだけど、子どもたちにとっては妖怪のしわざだそうだ。
なに妖怪なんだろう?なんてやつだろう?口々に言い合う姿をみていて、やれやれ、なんでも妖怪のせいにすればいいってものでもないと思いながらも、見えないものに思いを馳せるということは大切なことだなと感じます。
おもうに、ただ電球が切れただけ、おもちゃを置き忘れただけ、慣性の法則なだけ、ということは事実なんだけど、ただそれだけでは味がないというか、なんというか"のりしろ"がない気がします。
最近、その味とか"のりしろ"みたいな、"目に見えないけどそこにある"ものの重要性を昔よりも感じるようになりました。それは俗に年をとったということなのかもしれませんが。
例えば、昔は祈ることにどんな意味があるんだ。祈る暇があるならお金をだしたほうがよほど世の中の役に立つだろうなんてことを思ったりもしたのだけど、祈りも、願いも、約束も、指切りもげんまんも。お天道様が見ているよも。
質量はないし目には見えないし、確証も確約もないけど、でも人間というのはいいとか悪いとか、意味があるとかないとかではなくて、そういうところにすがりたくなる心や、そういうものに思いを馳せることで力が湧いてくるということが既存設定になっている生き物で、それを理屈でねじ伏せようとしてもどうしょうもないのだということがよくわかった気がします。
どうしょうもなく八方塞がりの時に、逃げ場にもなり、立ち上がるきっかけにもなり、自分を根底で支えてくれるのは、そういう目に見えないものに思いを馳せる力ではないかと思います。
子どもたちの中には既存設定でそういう心が根付いているように感じます。それはあの小さな子どもたちが親元を離れて社会に漕ぎ出すということは、大人の想像するよりも何十倍もいろいろなものを消耗していていて、それを根底で支えるためなのかもしれません。
それが成長とともに、そして教育の中で失われいくことはとても残念なことだと思います。「生きる力」というのは一言でいうと漠然としているけど、つまりはそういうことなのではないかと思います。
遠藤正樹
副住職さま
「妖怪ウォッチ」と彼岸会のご法話ありがとうございました。
わが家では4,5年ほど前から架空の犬を飼っておりまして、家族でも面と向かって言いにくいことはその飼い犬に言わせてしまうのです。もう大活躍でありまして今やわが家の平和と安全に欠かせません。さて、目に見える世界はそれこそ自然科学でしょうが、見えない世界は人文科学ではないかと思います。年を重ねるにつれてそれらしい定義になるようですが日々目に見えぬ世界に負うているという感覚は確かにあります。おかげさまでと心から言えるようになればしめたものだと思います。これが最後の難関でしょうか。
遠藤 正樹
副住職
日々目に見えぬ世界に負うているという感覚というのはなかなか簡単なことではありませんが、実際のところ自分の身の回りにはそういうことがたくさんあるような気がします。
自力を離れる第一歩というのはそういうところの中にあるのかもしれませんね。