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感性の世界。

| コメント(2) | 18年09月27日

先日ある研修にいくと冒頭で、とある幼稚園の園長先生が

私動物の声が聞こえるんです。
植物の気持ちがわかるんです。
最近なにとでも話ができるような気がします。
とおっしゃいました。

会場にいた若い先生たちがその話をききながら、ぽかんとしていると、みなさんも、そんな気持ちわかりませんか?
と問いかけられました。

一瞬う~んと頭をひねってみたのですが、ふと幼稚園の日常生活を思い出しますと、
子どもたちの生活の中にはそんな光景がたくさんあることに気づかされます。

例えば絵本の世界です。
あるクラスで、先日動物の床屋さんという話を読んでいました。

ある床屋さんに、ワニや、羊や、いろいろな動物がやってきて、床屋さんが試行錯誤しながらその動物に似合う髪型を考えるというお話でした。

他にも、絵本の中では野菜が話をしていたり、豚や、雲や、木やさらには車やおもちゃまでが、何食わぬ顔で話しかけてくるわけです。

子どもたちは、絵本の読み聞かせをする中で、その世界に没頭していきます。
その中で、自分自身がその物語の一人の登場人物になりきるわけです。
読むというよりは、はいっていくという感覚に近いように感じます。

例えば怖い場面になると、主人公といっしょに目を閉じたり、息をのんだりと、
うしろうしろ!と思わず声が出てしまう子もいます。

そして絵本が終わると、その余韻の中で想像の世界を膨らませていきます。
そして余韻の中で、子どもたちが遊びを展開させていくこともあります、動物になりきったり、お店屋さんごっこを始めたりと、絵本の世界は子どもたちにとっては新しい遊びの引き出しでもあるわけです。


そして、子どもたちは絵本によって様々な世界を想像的に体験できます。
この世の中には自分の知らない楽しみや苦しみ、どうすることもできない哀しみなどがあることを知ることで、他者を思いやる心や、命を尊ぶ心、そしてなにかを慈しむ心など、物語の中に入り、その世界を疑似体験することで知らず知らずのうちに心の中に育まれていくように感じます。
 
また、本を仲立ちにして、親子であったり、兄弟、先生や友達など、他者と共に考えたり感動を分かちあったりすることによって情操が育まれると同時に、自分のありのままの感情を分かち合う中で、自己肯定感も育まれます。

そんな光景をみていますと、教育のありかたについて考えさせられます。例えば、「これは絵本の中の話だからね、本当は野菜は話さないよ、動物は話さないよ。これは子ども向けの話だからね」と現実と、非現実の区別をしっかりとつけること、科学的な考え方をすることだけが教育の大切な目的かというとそうではないように思います。

たしかに大人になって、いつまでも、夢うつつでいることはできませんし、現実の世界で社会の仕組みをしり、科学でものごとをみなさいといわなければならない場面もたくさんあります。

しかしその現実を知っていることだけが、すぐれていることではなく、その現実を覚えていくことだけが教育かというとそうではないと思うわけです。

よくよく考えてみますと、私たちの中には、つい返事がないことはわかっていても、愛犬に話しかけてみたり、さらには手塩にかけて育てた野菜や植物に話しかけてみたり、時に山や雲や木に、自分の思いのたけをつぶやいてしまうような自分がいるのではないでしょうか。

この現代社会の中で、動物に話しかけたり、木に話しかけたり、手を合わせてるのは、一部の未開の民族だけで、文明人である私たちは、そんなものが話さないのは知っているぞ。というだけでは片付けられない思いというものが私たちの中には流れているわけです。

アニミズムという考え方があります。生物・無機物を問わないすべてのものの中に魂のようなものが宿っているという考え方です。魂とかいいますと、頭ごなしに非科学的だと、この科学の発展した世界でそんなことはナンセンスだと感じる人は多いのかもしれませんが、

私たちの心のどこかに、森がないてるとか、地球が苦しんでるとか、そういう感覚が全くなくなってしまったらと思うとこわいような気がします。

知識や科学も大切なことですが、それと同じくらい、人間心の中に本来持ち合わせているはずの心を閉ざさずに、育んでいく環境というのは大切なことです。

ある本の中に「宗教なき教育は、知恵のある悪魔をうむ」という言葉がありました。

私は宗教というものの根底には、このような理屈では片づけられない、人間が本来持ち合わせている感覚が流れているように思います。そしてその感覚は感性の世界から生まれてくるものであると思います。

感性というものは例えば、「きれいだね」「うれしいね」「かなしいね」人間がふと素朴にわいてくる、本来もちあわせているあたりまえの感覚です。

その心がしっかりと育まれ、自分の中に肯定されていくことで、その感覚は自分以外の他者へ向けられたものに育っていくのではないでしょうか。そしてその心は宗教心の根底にあるものだと思います。

「願い」や「祈り」その心を生み出す心の原動力は感性であると、そしてその感覚は、そのまま人間の生きる力に直結していくのではないでしょうか。

仏教の世界にも「 一切衆生悉有仏性」という言葉があります。
すべての生きとし生けるものには仏性、すなわち仏となる要因があるということです。

現代は、情報社会、物質社会、成果主義ということがいわれています、その中でそういう感覚、心が失われてきてしまっているように感じます。

「おてんとさまが見てるぞ!」という言葉の意味をご存知の方は多いと思います。「日の当たる場所を歩けないようなことをしてはいけない」ということも同じ意味で使われることがありますが、現代の子どもに「おてんとさまが見てるぞ!」といってもきっときょとんとしてなんのことかわからないというのが現実ではないかと思います。

その心は人間として、ここ一番で自分自身を踏みとどめる理性であり、同時にここ一番で自分自身を支えてくれる大きな力であるような気がします。それを完全に失ってしまっては大事なことを見失ってしまうような気がします。

そして宗教というのは、その心の中で、人間の有限性、分限のようなものに思いを馳せるところに発端があるように感じます。

山をみて、海を見て、桜を見て、おてんとさまをみて、自分の理屈をこえたものに心が軽くなる実感のようなものを人間は心の根底に持ち合わせているような気がします。

有限性を感じることではじめてそこから対比されたなにかが浮き彫りになります。
その何かが、時に仏となり、時に浄土となって形作られるのかもしれません。

「おてんとさまがみてる」その想いはそのまま阿弥陀様の姿であり、その存在がそこにあると、常に見ていてくださるという感覚こそが、私たちがなによりも忘れてはいけない願い、救いに結びついていくように思います。

そして「南無阿弥陀仏」お念仏の心も、感性の世界の中にあるのではないかと思います。
この言葉になにか理論的な意味や、また呪術的な効果があるわけではなく、南無阿弥陀仏その一声が自分の中から出てくる、その一言が口をついて出た時に、その根底にある自分自身の声に気づき、その声を発した私自身にもう願いをかけられている存在に気づかされるわけです。

曽我量深という方がある著書の中で、お念仏とは、人間回復の機縁であると書かれていましたが、人間回復というのは、理解とは別の部分で腑に落ちる、心に響く感覚を忘れずに大事にすること、このような気持ちの上にあるような気がします。その心があって傲慢にならずに謙虚にいきていくことができるのかもしれません。


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鶯の声。

| コメント(2) | 18年04月09日


寒い冬もまもなく終わり、もう、すぐそこまで春がきているようです。春というものは実際は目に見ることはできませんが、膨らんだつぼみや、冬ごもりをしていた生き物が土の中からでてくるのをみると春の訪れを感じることができます。


暑さ寒さも彼岸までといいますが、私は寒い冬が苦手ですので、この時期は1日も早く暖かくなってほしいと願っているのですが、先日、春の訪れを告げるあの鳥の声が聞こえてきました。


「ほーほけきょ」


その声に、なにか心がふわっとほぐれるような気がするわけです。
なんとも風情があるといいますか。

今日はお彼岸ですので、その鶯の鳴き声ということにかけまして、お念仏の心ということでお話をしたいとおもいます。


浄土真宗というのは、一言でいえば南無阿弥陀仏の宗派ということになりますが、その中で浄土真宗では「信心」というものを大切にします。

「信心」

信心といいますと、読んで字のごとく信じる心ということになりますが、
はなにを信じるのかといえば、それは仏の願いということになります。では仏の願いとはなにかといいますと、みな救う、必ず浄土に救うという願いを指すわけです。


私たちはその願いを信じるわけですが、
しかしこの信じるというのは、簡単なようで実はとても難しい、
そもそも人間は信じるということがあまり得意ではないともいえるかもしれません。

信じるといいますと、自分が神様を信じる仏様を信じる。
自分の方から意識的に発して信じるものであるというのが一般的な解釈ではないかと思います。

しかし浄土真宗の信心は少し違います。
信心は自分から発するものではなく「いただく」ものであるというわけです。


自分から発信している信じるということでは、多くの場合、真面目な人であればあるほど、
阿弥陀さまが浄土に往生できるというので、それを信じてみよう。
しかし長いことそれを信じてお念仏をしてはいるものの、
気持ちが晴れ晴れするわけでもないし、
浄土に行くといわれてもピンとこない、
そりゃ信心がたりないからだ、もっと信じなければといわれればそうかもしれないし、
ではこれ以上信じろと言われてもどうしたらいいのだろうか・・・

ということになってしまうのではないでしょうか。

浄土真宗では信心のいただき方といいますと、
阿弥陀さまの呼ぶ声を聞こえたままに、そのまま自分の中に聞くことで、お浄土に生まれることが確かになることなのだといいます。そこに疑心わくことなく安心することが、「ご信心」のいただき方です。

「聞こえたまんま」というのは、他でもなく「お念仏」が聞こえたまんまということです。南無阿弥陀佛のお念仏はもちろん私たちの口で声に出して称えるものですが、同時に阿弥陀さまの私を喚ぶ声です。「必ず救うぞ」という阿弥陀さまの声なのですから、その声をしっかり聞かせてもらわないといけません。

と、ある先生がおっしゃっていました。
しかしどうにもこの話だけでは自分の中ではっきりと確信をもって「わかる」と言い切れない部分があります。

そんな中で、「ほーほけきょ」という声が聞こえてきました。
鶯の鳴き声です。

私はふと、この声もまた一つのお念仏の形ではないかと感じました。
「ほーほけきょ」あの声はなんなんだろうか、疑問に思った時に、鳥に詳しい人にききますと、

あの鳴き声は、縄張り内を見張っているオスの声で、「ホーホケキョ」が他の鳥に対する縄張り宣言であり、巣にエサを運ぶメスに対する「縄張り内に危険なし」の合図でもある。また、その声がメスにとっては魅力となるために、オスはその声が遠くまで通るように鳴くことを練習しだんだんうまくなる。また、「ケキョケキョケキョ」が侵入した者や外敵への威嚇であるとされており、これを合図に、メスは自身の安全のためと、外敵に巣の位置を知られないようにするためにエサの運搬を中断して身をひそめること。


なんていう情報を教えてもらえます。
なるほどあの鳴き声はそういうことなんだなと頭で納得できるかもしれません。

お念仏も同じで、南無阿弥陀仏とはなんなんだろうか。
例えばそれを参考文献などを引いたり、もしくはウィキペディアで調べますと、、


「南無」はナモー(namo)の音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマス(namas)の連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依(śaraṇagamana)を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。

「阿弥陀」は、その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明, amitābha)」と「アミターユス(無量の寿命, amitāyus)」に共通するアミタ(無量[注釈 2]、amita-)のみを音写したもの。

すなわち「南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。

ということを教えてくれるかもしれません。


なるほど、お念仏とはそういうものか。
とすぐに納得はできないかもしれませんが理解は深まるのかもしれません。

例えば、他にもこんな聞き方もできるかもしれません。


「ほーほけきょ」あの声は何だろうと思ったものの、 とくに興味も関心もなければ、
なんかよくわからないけど、鳥が鳴いてるな、どんな鳥かしらんけど、たぶん鶯という鳥だろうな。

かぁかぁと、カラスがないてるのとかわらん。
ちゅんちゅんと雀が鳴いてるのとかわらん。


気にもとめなければただの鳥の声、それ以上でもそれ以下でもないという聞き方もできるわけです

お念仏も、同じように聞いてみますと、

南無阿弥陀仏、なんかよくわからんけど仏教の言葉らしいな、浄土に行ける呪文のようなものなのかもな、なんかクワバラクワバラみたいなものかな。

という聞き方もできるわけです。

しかし、お念仏の聞き方というのはそのどちらとも違うと思います。


「ほーほけきょ」と聞こえた時に、そこになにをきくのか。聞きようによっては例にあげたように、いろいろな聞き方、受け止め方ができるわけですが、


先ほど冒頭に、ほーほけきょという声をきくと心がほぐれる気持ちがしますといいましたが、そこに共感していただける方もたくさんいるのではないかと思います。中には、春の日差しの中、ふと桜の枝にとまる鶯の情景が浮かぶような方もいるかもしれない。

いろいろな聞き方ができる中で、その違いは何だろうか考えてみますと、

そこにある違いの一つに、鶯の声をきく自分自身の中に、寒い冬のきびしさから、あたたかい春を願う心があるかどうかということがいえるかもしれません。

心の中に意識的にも、または無意識的にも「春になってほしい!」その思いが流れていて初めて「ほーほけきょ」その声が、ただの音ではなく春の訪れつげる声となり、桜の花までの情景に結びつくのではないでしょうか。


お念仏も同じではないかと思います。

南無阿弥陀仏、その声を聞くときに、自分自身の中に本当に救われたいと願う心があるかどうか、その心の奥底にその思いが、お念仏の声を、ただの音ではなく、阿弥陀仏の願いの声であることに気づかかせてくれる、そしてそこにそこに浄土の姿が浮かんでくるようなものではないかと思います。

救われるしかないわが身に気づかされること、そしてそのわが身にもうすでに仏の願いがかけられていることに気づかされることがすなわち「信心」の核になるものではないかと思います。

救われたい!という声を発していると同時に、無量の時間の中で考え抜いた阿弥陀様の救うぞが聞こえてくるわけです。

では何から救われたいのか、それは生老病死という、この四苦の現実の中に今この瞬間私たちが生きているという現実です。仏教ではその苦しみに気づかずに生きていることを無明といいます。その無明の闇を晴らして、その私たちに浄土の願いをかけられている本願に気づく。それこそがお念仏の心になるわけです。

鶯がどこかから直接春を運んでくるのでもない。
南無阿弥陀仏が直接苦しみを消し去ってくれるわけではない。

しかし、自分の内なる声に気づいたときにはじめて、それは春の訪れを告げる声に、そして浄土の救いというものにつながっていくのではないかと思います。

その内なる声に気づかせていただくために、人間とはどういう存在なのか、なぜ浄土に救われなければならないのか。自らに問いをもつということはなによりも大切であると思います。

わが身とは何か。
自己とは何ぞや。

多くの人たちが考え抜いてきました。
その問いが、私たちの中でお念仏と形をかえて、仏さまからの答えとなってとどくわけです。

浄土真宗では、そのお念仏の世界を自分自身の中で味わい、その味わいを共に語り合い、共有し、共に歩く仲間を「御同行」「御同朋」といいます。

お寺という場所は、仏法に出遇い、その喜びをともに歩む御同行、御同朋に出会う場所です。このお彼岸にまた何かのきっかけになれればと願います。

副住職

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かけっこ。

| コメント(3) | 17年12月13日

朝晩の寒さも一層厳しくなり、いつのまにか秋から冬へ季節が変わってきているようです。

寒さの苦手な私はだんだんと出不精になり、室内で過ごすことが多くなってきました。
そんな私を横目に、園庭では毎日子どもたちが元気に走り回っています。

この時期の園庭では子どもたちは、縄跳びに、ドッヂボールに、鬼ごっこ、落ち葉を集めては落ち葉のプールに飛び込んだり、身体を思いっきり動かして遊んでいます。

この時期の園庭の様子を、ある園長先生がカサが減ると表現されていました、4月には子どもと子どもたちの間に距離があり、園庭全体にちらばって所在無げにしていたり、個々に遊んでいるために、園庭のスペースが手狭に感じるのですが、この時期になると、子どもたちの小さなシマがあちらこちらにできて、子どもと子どもの距離がぐっと縮まることでカサが減り園庭にスペースができるというわけです。

この時期になるとその話を思い出しながら、本当にその通りだなということを実感します。
子どもたちはこの8ケ月で友達との距離を縮め、自分なりの習慣をつくり、幼稚園の中にしっかりと自分の居場所を見つけてきたのだなと思うと成長を感じます。

そんな園庭で遊ぶ子どもたちの遊びを見ていると、子どもたちの遊びの変化の中にもしっかりと成長の姿をみることができます。

例えば、幼稚園に入った頃、園庭を自分のペースでただ走り、走る楽しさ、スピードを感じる心地よさを感じながら、「かけっこ」をしていた子どもたちは、そのうちにお友達とどちらがはやいのか、どちらが逃げるのが上手なのか、追いかけるのが上手なのか、自分の力を確認するかのように「おいかけっこ」をするようになります。

その遊びは、次により楽しめるためにルールをつくり、そのルールをみんなで共有して「おにごっこ」という遊びになります。

「かけっこ」は「おいかけっこ」になり、そして「おにごっこ」になります。

この遊びの自然変化には大抵の場合1~2年くらいの時間がかかります。
この遊びの変化にかかるスピードはとても大切なことのように思います。

しっかりと走る楽しさに充実することができて、その楽しさを他者と共有したいと思うようになります、その共有ができてまた次にその遊びをさらに深めていきたいという意欲に結びついてくるのだと思います。

その答えを大人が先に与えて、強制的に進化させてしまうのではなく、そこにしっかり時間をかけて、子どもたちが自ずと進化をしていくことを理解して、それをいかに見守ることができるのかということが幼児教育の肝みたいなものなのだと思います。

めまぐるしく色々なことが変化していく、このスピード感の早い世の中で、子どもたちの、この成長するスピードに寄り添い、同じ目線で歩くことのできる心を忘れないようにしたいと思います。

師走は師が走ると書きます。

この時期、いろいろなことに追われ、思わず走りたくなる気持ちになることが多々あります・・・しかしぐっとこらえて深呼吸、少し余裕をもって生活をしていけたらと・・・いう、まず気持ちだけでも。

少し早いですが今年もありがとうございました。
また来年度もよろしくお願いいたします。

副住職






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お盆を終えて。

| コメント(2) | 17年08月22日

 

夏を迎えるとふと思いだす言葉があります

 

「ケイ蛄(けいこ)春秋を識らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽の節を知らんや」

 

これは曇鸞大師のお言葉です。曇鸞大師は中国の僧侶であり、七高僧の中の一人にあげられている方です、若くして出家をされて、仙経を学んでいたのですが、のちに菩提流支という方に出会い、仙経を焼き捨てて本願をあきらかにされました。

 

例え話の上手な方だったそうでいくつかの例え話が伝わってきています。

その曇鸞大師のお言葉が冒頭の一文になります。

 

ケイ蛄とはセミのことです。セミは春や秋を知らない、春や秋をしらないセミがどうして今が夏(朱陽の節)だと知ることができようかという意味です。

 

セミは夏の生き物と私たちは思っていますが、とうのセミたちは、7年間地中で生活して、そして、夏になって地上に出てきて、三週間ほどで死ぬと言われています。ですからセミは春や秋を知りませんし、ましてや自分の出てきた季節が夏であるということも知りません。

 

これは例え話なのですが、これはなにを例えているかというと、セミとはつまり私たち人間のことを指しているそうです。

 

今この瞬間が夏であるということは、春秋冬をしるからこそ、そこからの比較で夏をしることができる、自分の住む世界の中だけにいては、そこにいる自分自身のことはわかっているようでなにもわかっていないということです。そしてそこで必死に命を精いっぱい燃やして、この瞬間を消耗して生きているということです。

 

仏教では私たち人間は「迷いの世界」にいると教えています。

ところが、私たちは一向に迷いの世界にいるという自覚がありません。

 

自分が迷っていることすら気づいていないわが身を「凡夫」という言葉で表されます。

といいますと、多くの人は生活の中に、人生の中に、迷いも苦しみもありますというかもしれません。

 

しかし、私たちの根源的な苦しみは社会や、世間というところよりももっと深い根源なところからくるということが仏教の教えです、表面的な苦を解決しながら生きていく中に、その根源的な苦を正しくうけとめることを忘れてしまっているというわけです。

 

人間の視野というのは、どこまでも自分の視点からしかみることができません、そしてその視点は世間の価値観の中で、180度かわってしまうくらいに不確かなものを頼りにしています。

しかし不確かなものを頼りにしているということにもなかなか気づくことができません。

 

その気づきへの第一歩が、まずは自分自身の置かれている状況を正しく受け止めることつながってきます。

 

いざ自分を一歩引いてみたときに、生きることの無常、そして現実の非情、そういうものに目を背けることができないことに気づかされます。その一つ一つをしっかりと受け止めた時に救われるしかないわが身が浮き彫りになります。

実際にはそれが何よりも難しく、その現実を受け止めようと思っても、自分の中でまたいろいろな都合や理由をつけてフィルターをかけてしまいます。

 

しかしながらその現実の中にこそ、人間のはからいをこえた命ということがある、命は自分の中から発露しているかのようで、たくさんの絶妙なバランスの上になりたっているという事実を見つけることができます。

 

そこに「生きている」という意識から「生かされている」という意識への変化も生まれてくるのかもしれません。

 

「月影の至らぬ里はなかれども、ながむる人のここにぞ住む」

親鸞聖人の師であられた、法然上人の詩があります。

 

そして、そのありのままのわが身に気づかされた時に、この身にすでに月の光がさしていることに気づかされる。そしてこの瞬間、今の季節がなにかもわからないまま命を燃やし続けているわが身を一歩引いて知らさせていただくことができる。

 

この「一歩」こそがとても大切な「一歩」であるように思います。

 

お念仏とはその一歩を歩ませてくれるものです。

 

その一歩を歩みだすために、まずあるがまま、目の前にある現実にしっかりと意識をむけていくこと、その感触をひとつひとつ確かめることを、味わいながら生きるということになるのではないでしょうか。

 

迷いの世界にいながら迷っていることに気付かない。そんな我々衆生を「目覚めて下さいよ。迷ってますよ」と揺さぶりかけてくる声が「南無阿弥陀仏」なのです。

 

それは「悟りの世界」からの呼びかけです。その世界からの働きかけがなければ、私たちは

到底「迷いの世界」にいることを自覚することはありません。

 

浄土真宗に帰すれども

真実の心はありがたし

虚仮不実のわが身にて

清浄の心もさらになし 

 

親鸞聖人のご和讃の言葉です。

 

真実の心(悟りの世界)に照らされて初めて虚仮不実のわが身が見えてきます。そこに気づかされてはじめて、謙虚にあろうと自然と頭が下がるのかもしれません、その時、私たちは迷いの世界にいながら、迷いの世界を超えた世界を知ることが出来るのかもしれません。

 

副住職

 

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桜さく。

| コメント(2) | 17年04月06日

お彼岸が過ぎて、春の風が吹いて、気候も穏やかになってきました。

桜の花も一気に開花したようです。

当たり前のことですが、ちゃんとその時期になると、その時期の花が咲くというのは、よくよく考えてみると不思議なことであります。

それが日照時間だけなのか、他にもたくさんの影響があるのかわかりませんが、いろいろな変化が起きていて、そのすべての要因のひとつひとつがさくらのつぼみを膨らませ開花させています。

なにかその要因がひとつでもそろわなければ花は咲かないのかもしれませんが、毎年毎年、その多くの要因が日々刻々とした変化の中で実り、花をつけ、しっかりと咲き誇り、やがて風が吹けば散っていくわけです。

あらためてその一つの現象をよくよく感ずるにそこには人間の頭や知識だけでは計り知れない数多くの縁があるように感じます。

先日、ある方と話をしているときに、その方が、

「生きる」ということがある瞬間に「生かされている」という感覚に変わってきたとおっしゃっていました。

命があるという意味でいえば、生きるでも生かされているでも同じなのかもしれませんが、この命がここにあるという現実をどのように受け止めるのかということは浄土真宗の教えの中でもとても大事な根幹につながってくることだと感じます。

生きているというのは、自分自身が能動的に命を発しているようなニュアンスが感じ取れますが、生かされているというのは、命というものにとても受動的であるように感じます。

その命ということを考えたときに、その言葉、その話が先ほどの桜の話にもつながってくるように思います。

植物でも人間でも、この命という現象、事実は目に見えぬたくさんの縁の中に、影響されて縁がそろえば実をつけ、縁がそろわねば実はつかぬわけです。

雨が降り、あたたかな日差しがさせば、緑は芽吹き、風が吹けば花は散るわけです。風に吹くな、雨よ降るな、太陽よさすなといってもそれは自分の範疇を越えた先にやってきます。

やなぎの葉が風に揺れるように、人間の人生もそのような不可抗力、たくさんのご縁を意識的にも無意識的にもたくさんうけて、右に左になびきながら、ときに幹が傾いたり枝が折れたり、またそこから新しい芽を芽吹いたりしながら、それがいい影響を、そしてときにそれは悪い影響を及ぼしながら生きています。

自分の意思というと自分の自我の中から発露してくるもののようですが、自我もすでのこの大きなご縁の影響を存分に受けてつくられていくわけです。

そしてそのたくさんの影響を受けながらこの瞬間、こうして息をして、ひとつひとつ鼓動している命がここにあるわけです。

「生きる」ということ「生かされている」ということ、この2つの違いはこのような視点の中から生まれてくるように思います。

この視点の違いはすなわち、自分からみた視点と同時に、俯瞰的な大きな視点を獲得するということでもあります。このおおきな俯瞰的な視点を持つことで、人間は自分自身の分限をより明確に知ることができるのかもしれません。

その分限を越えた先になにがあるのか、それが聖道浄土のかはりめにつながってくるのかもしれません。

念ずるという漢字は、今に心と書きます。それはこの瞬間に想いを馳せて、過去でも未来でもないこの瞬間に私自身がいるということをしっかりと受け止めてお念仏を申すことは、すなわち、生きていることから「生かされている」ことへの転換であり、その現実をしっかりと受け止めるという心の響きなのではないかとおもいます。

副住職

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あけましておめでとうございます。

| コメント(2) | 17年01月18日
あけましておめでとうございます。
といっても新年があけてだいぶ経ってしまいました。

元旦の修正会にはたくさんの方にお参りいただきありがとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

さて、幼稚園では今年度も残すところあと3ヶ月、1年の活動もいよいよ大詰めの時期にはいりました、そんな中、先日幼稚園でみかけた場面の話です。

園庭で縄跳びをもち、下を向きたたずんでいる3歳の男の子がいました。
 
うつむいたまま微動だにしないその子を遠目に見ていて、
なにか嫌なことがあったのか、どこか痛いのか、具合でも悪いのだろうかと思って、そっと近づくと小さな声でなにかつぶやいていました。
 
「発車までいましばらくお待ちください」
 
その子の進む方向をみると、他の子どもが三輪車で遊んでいます。
三輪車が通過するのをまって顔をあげると、
その子は勢いよく縄跳びをもったまま走り出しました。
 
「次の駅はオオカミ駅~」
 
ただ黙って立ち尽くしているように見えた子供の目には、
まっすぐに線路が見えていて、
次の駅へ向かうための安全を確認していたようです。
 
たたずんでいる時間の中にもしっかりとした遊びのイメージができあがっていたこと、そして4月では考えられなかったその遊びの広がりに成長を感じました。

あたりまえのようなことですが、この遊びひとつが出来上がるまでに1年の時間がかかります、そしてこれからこの遊びは、一人だけのイメージで完結していたものが、お友達や先生たち、自分以外の人たちとイメージを共有し、一つの世界をみんなでつくっていくというように展開していきます。

1日1日にこうした成長を感じながら、新学期に向けて気持ちを引き締めてまいりたいと思います。

副住職

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自由。

| コメント(2) | 16年12月06日

あっというまに12月です。

6月に小学生を対象とした学童保育「ratoon」を立ち上げてはやいものでもう半年がたちました。

その中で気づかされたことがあります。

 
それは子どもにとって「自由」というものは、
とても難易度の高いものであるということ、
そしてその難易度をあげてしまっているのが「評価」であるということです。
 
ratoonにきた子ども達をみていて、
さあ自由に好きなことをしていいよというと、
大抵の子は、自分の知っているもの、
得意なものを手に取って挑戦をします。
 
それを突き詰めていえば、
はじめて挑戦してもそこそこできそうなもの、
過去にいい評価を受けたことのあるものという分類ができます。
 
それでもはじめてみるものや、
見たことがないものへの好奇心は隠しきれず、
そこから湧いてくる挑戦したい想いと同時に、
うまくできないこと、
評価されないかもしれないことへの怖さみたいなものを
意識的にも無意識的にも天秤にかけているようにもみえます。
 
子どもはいつだって自由かというとそんなことはなく、
子どもほど周りからの評価をきにして、
自分の分限の幅を空気の中から読み取ろうとしている、
そしてなによりも周りからの期待に一生懸命答えようとしています。
 
その天秤のバランスをとりながら、少しづつ好奇心の扉を開いているように見えるのです。
 
そのペースは大人の思うよりもとてもゆっくりで、
その扉を大人が無理にこじ開けないようにしたい、
ゆっくりと扉を押していくペースを考えなければなりません。
 
ratoonにきた子がはじめに口にする、
これ自分でやっていいの?
うまくできないかもしれないよ?
子どもがつかっていいの?という言葉。
その言葉はそのまま子どもたちの生活や置かれている状況の写し鏡なんだろうと思います。
 
どんなこともトライアンドエラーを繰り返して、物事は深度を深めていくことができる。その中で想像を膨らませ、創造を楽しむことができる。
 
失敗してもいいんだよと大人はいうが、
子どもが安心して失敗できる環境をどれだけ整えられているのだろうか、
無意識的にも成功ばかりを評価しているのではないだろうか、
大人が率先して失敗し、トライアンドエラーをする姿勢をみせていられるだろうか。
 
ratoonを始めるときに、子どもたちが自由に好きなことをできる場所にしたい、そこで想像や創造にあふれる環境をつくりたいと思いました。
 
しかしはじめてみて、まずでばなで気づかされたのは、
いかにその環境を周りにいる大人が狭めていたのかということです。
 
子どもの行動は本当に写し鏡です。

まずは一つづつ。
 
安心してトライアンドエラーすることで、やっていいことの分限をひろげ、その経験をつながりの中で共有できる場所づくりをしていきたいと思います。
 
環境をつくるということはとても難しい。
難しいというと十把一絡げですが、
 
どんな場面でも「いい環境」というものに定義があった時に、
 
そこには物質的な充実というものの占める割合よりも、

そこを作る目に見えない要素、言葉や姿勢、想いや願いというものの占める割合が大きくなっていなければいけないのだということを実践をもって感じる今日この頃です。

副住職

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蜘蛛を見つけた話。

| コメント(1) | 16年07月20日

6月に小学生を対象とした学童保育「ratoon:ラトゥーン」を開室しました。ratoonとは新芽という意味です、幼児教育は人間形成の根っこの部分だと位置づけるのであれば、小学生になりそこから芽生えたちいさな新芽の心にもしっかりと、心をよせていきたいという願いが込められています。

http://www.ratoon-m.com

学童保育を開室してはや2ヶ月、あっというまにここまで駆け抜けてきた気がします。

これから少しずつそこで感じたことなども書いていきたいと思います。

蜘蛛を見つけた話。

先日、学童に初めてくる子供がいて、常連の子供たちとの間にすこし壁みたいなものがありました、
入室してからもしばらくそれぞれが会話を交わすことなく過ごしていましたが、そのうち一人の女の子が蛙を取りにいきたいといい、みんなで連れ立って田んぼに蛙を取りに行くことになりました。
 
田んぼについてしばらく、それぞれ蛙を追いかけたり、捕まえたりしながら過ごしているところに、大きな蜘蛛を発見。
 
子供たち騒然、みんなで捕獲に挑戦、大格闘の末無事に捕獲。
 
蜘蛛を飼育ケースに入れると、みんなは口をそろえて「気持ち悪い!」「無理!」「やめて」という幼いボキャブラリーの中から思いつく限りの罵詈雑言を蜘蛛にあびせました。
 
それをみて、その蜘蛛を連れて帰ることにしました。
 
「気持ち悪いよねぇ」
「ねぇ」
「うん」
 
帰りのバスの中では、いままでお互いの距離感をしっかりととっていた子供たちが同じ気持ちになって、会話をしはじめて「気持ちが悪い」という共通の気持ちを共有することで一体感を得ているように感じました。
そしてその「気持ち悪い」という感情が蜘蛛だけではなく、
それをいとおしそうに持ち帰ろうとしている自分にも向けられているのだということには気づかないふりをしつつ・・・
  
「気持ち悪い」という感情で結びつくことがはたしていいことなのかどうか。ということはこの際はさておいて、
この蜘蛛の捕獲があったことで、部屋に戻ってからの子どもたちの距離はぐっとちかくなったように感じました。
 
昔読んだ藤子F不二雄のマンガの中に「にくまれ屋」という短編漫画があったのを思い出しました。
一人の敵の前では人間は結束するという習性をビジネスにして、
長い宇宙旅行の中にあえて一人憎まれ役がいることで、
他の乗組員の結束が強くなるという話。
 
その話を思い出しながら、たとえば「子供たちの心を一つにつなげる」という目的があった時に、
そこにいきつく方法はたくさんあって、その無数の道筋の何が正解なのかはわからないけど、
その道筋の引き出しを一つでも多くもっていたいと思いました。
その方法はつまるところ人間というものを深く掘り下げていくということなのかもしれません。
 
そして願わくば、この思いつく限りの罵詈雑言を浴びせた生き物にすこしでも興味がわいてきて、
その小さな体験が、はじめはありえないものだと思っていたものでも、好きになれる可能性があるのだということを心に刻む小さな種にはなれないだろうかと思っています。
 
でも、これがもし逃げたら私はもう二度とratoonには来ないと何人かの子供たちにくぎを刺されているので、気を付けて観察したいと思います。

副住職

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こいぼろり。

| コメント(2) | 16年04月17日
幼稚園では、無事に入園式も終わりはじめて親元をはなれ、社会に踏み出してきた子どもたちがたくさんはいってきました。
 
朝幼稚園に来るときに、お母さんから離れられず泣き叫んでいる子、しっかりといってきますといって離れては見るものの、お母さんの顔が見えなくなったとたんシクシクと涙を流す子、1日しっかりと過ごしていたのに、帰りに迎えに来たお母さんの顔をみたとたんに泣いてしまう子。
 
子どもたちにとってこの時期は毎日が戦いです。心と体のすべてをつかって身体全体で成長をしています。
 
この時期の子どもたちを見ていると、1日1日、目に見えて成長していることを実感させられます。
 
そして、先日園に鯉のぼりをだしました。
 
その鯉のぼりを指さして、ある子どもが「こいぼろり」と言っていました。
 
惜しい。
 
鯉のぼりには「子どもたちが元気にすくすく育つように」という願いが込められています。子どもたちが、日々すくすくと元気に怪我なく今年も1年過ごせるようにがんばりたいと思います。

副住職

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インフルエンザ。

| コメント(2) | 16年02月03日

先日の新年会もたくさんの方にお参りいただきありがとうございました。
遅くなってしまいましたが今年もよろしくお願いいたします。

さて、テレビのニュースでインフルエンザの流行が報道されていましたが、私も流行にのってしまい先日インフルエンザにかかってしまいました。急な高熱で数日寝込んでしまいました。

健康なときにはついつい忘れてしまうのですが、病気で布団に寝付いているとなにはともあれ健康が第一であるということを痛感します。藁にもすがるような気持ちという言葉がありますが、高熱が続きますと、まさにその心境この熱がさがり、一日もはやく健康になるならどんな薬でも飲もうという気になります。

親鸞聖人の奥様であられた恵信尼様が、末の娘の覚信尼様に宛てられた手紙の中に、親鸞聖人が熱で苦しんでおられた時の様子を綴ったものがあります。

その文章を意訳しますと、

親鸞聖人が体調を崩されて夕方から寝込んでいた事がありました、次第に症状が重くなってきたようでした。身体に触れると火のように熱く、頭痛も激しくただ事ではない様子でした。

病気になられて4日ほどたった時に、なにかうわごとを言っているようでしたので、どうしましたか?と聞いてみたところ、

聖人は、病気になって2日目から大無量寿経を休むことなく読んでいたのです、すると目を閉じてもお経の文字が1文字残らずはっきりと見えて、これはどうしたことか、不思議なことだと思っていました。

お念仏をよろこぶ心のほかに、なにかまだ心にひっかかることでもあるのだろうかと思いよくよく自分自身のことを思い返してみるに、

17、8年前に民衆を救おうという想いで浄土三部経を1000回、読みはじめたことがあった、しかしその時に、それは大きな間違いだと気づき、名号を称え、お念仏の信心を喜ぶほかに、なにが不足で、お経を読まなければならないと考えたのだろうかと反省して、読経を中止したことを思い出したのです。

その時に反省したはずなのに、今、病気になり、またその時の気持ちがむくむくと湧いてきたのだろうか、お経の功徳にすがろうとする気持ちが自分の中に残っていたのであろう。

自力への思いは、たやすく捨てきれないもので、よくよく注意しなければならないと改めて反省し、

「そうだった、そうであった」とつぶやいていたのだよ。

そしたら、目の前のお経の文字がふっと消えたのだ。

そうおっしゃられた。

そしてまもなく、ひどく汗をおかきになつて、病気は快復されたのでした。

親鸞聖人はこのとき御年60歳前後だったといわれていますが、その年になってなお、自身の自力への執着を隠すことなく反省し、しっかりと我が事として受け止めている姿に心打たれるエピソードです。

この出来事をふと思い出しました、同じような状況の中、恥ずかしながら私の目の前には大経の経典の文字は浮かんでくることはなく、ずっと「とんぷく」という文字が浮かんでいました。

皆様もインフルエンザにはお気をつけください。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

副住職




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