寂円寺徒然日記
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光陰矢のごとし
今年もはやいもので大晦日となりました。

光陰矢のごとしとはいうものの、年々1年の過ぎてゆくスピードが増していくように感じます。
 
思い起こせば今年は元旦に能登半島地震がありました、身近な仲間も被災し、今、なお多くの方がご苦労をされ、復興に向けて日々奮闘されています、その方たちのご苦労を計り知ることはとても難しいですが、引き続き自分たちに出来る支援を継続していきたいと思います。
 
私たちの人生には、ある日突然に想像もしていないようなことが起きることがあります、もしかすると頭の片隅で想像をしているつもりでも、実際にそれが起きると、頭や心でそれを正面から受け止めることが難しく、途方に暮れてしまうようなことが多々あるわけです。
 
そんな私たちの生きるこの世界を娑婆といいます。仏教の教えでは、この娑婆の世界を「一切皆苦」つまり苦しみに満ちあふれているということを説きます。苦しみと書くとなにか、とてもつらい、痛い、息の詰まりそうな感覚ををイメージしてしまいますが、ここでいう苦とは、思い通りにならないということです。
 
つまり私たちの生きる世界は、決して思い通りにはいかないことで満ちているというわけです。それがこの世界の真実の姿になります。
 
その世界の中で、私たちは、思い通りにならないものをなんとか自分の力で思い通りにしようとしたり、また時に、思い通りにならない大きな流れを自分の都合で解釈をしてねじ曲げようとしたりするわけです。
 
その思い通りにならないものを自分の力でなんとかさせようとするものこそが執着であり、その執着の心で曇った私たちの目には、今、自分の生きているこの世界を理解し、遠くまで見通せているつもりになっているけれど、本当はなにも見えていないというわけです。
 
その私たちの姿を、凡夫と呼ぶのが浄土真宗の教えです。
 
その凡夫である私たちの目は、ものごとを正しく見ているつもりでも見ることが難しく、世の中の道理を理解しているようでも理解することは難しいということすらもわかっていないというわけです。
 
つまり、私たちは例えるならば、それぞれが心の中に思う穏やかな場所、いまよりもいい場所、人生のゴールを目指して歩いているにもかかわらず、実は地図もランプも持たずに、真っ暗な道の中を、自分の感と、運のようなものだけを頼りに右往左往して同じ場所をグルグルと回っているようなものだというわけです。
 
「南無阿弥陀仏」のお念仏というのは、その旅路において、時に地図になり、ランプになり、行く末を照らしてくれる道しるべのようなものです。お念仏をすること、それがなぜ道しるべになるのか、すぐに理解することは難しく、このように書きますと頭の上に「???」が浮かぶ方もたくさんいることと思います。
 
その「???」をたくさん点灯させながら、それでもお念仏を続けていくことで、私たちは仏教の教え、お念仏の教えにふれることができます。その中で教えというものが数千年、数百年も消えずに残ってきた理由がすこしづつ解き明かされていくわけです。
 
お寺に足を運び、仏教にふれ、お念仏にふれ、その理由をさがすことを「聞法」といいいます、浄土真宗では聞法することを忘れず、聞法をしていくなかで頭の上にあった「???」がいつか「??」になり「?」になり、さいごに「!」となっていく、そして、いままで自分の見えていた世界とは少し違う、新しい視点で世界を眺めることが出来るようになるのかもしれません。
 
その視点こそがお念仏の心であり、仏さまの視点なのではないかとおもいます。
 
お寺という場所は、身近な方のお墓参りをする場所であると同時に、その身近な亡き方を機縁にお念仏に出遭う場所です。来年もまた多くの皆様にお参りいただけますよう、お待ちしております。
 
明日元旦には、1年のはじまりの法要、修正会が10時より厳修いたします、どなたでもご参加いただけますのでどうぞお寺にお参り下さい。
 
最後になりましたが、本年も大変お世話になり、本当にありがとうございました。
来年もどうぞ宜しくお願いいたします。
よいお年をお過ごし下さい。
 
副住職
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