寂円寺徒然日記
観る。

 

阿弥陀さんをみていて、阿弥陀さんはなんて眠たそうな顔してるんだろうなぁと思ったことがあります。

阿弥陀さんだけでなく、最近仏像を見に行くことが流行っているそうですが、仏像ってのはいろいろなものがありますが、たいていは目をカッと見開いてるものはないように思います。逆に目を完全に閉じているものもないように思います

うっすらと目を開け少し先を見据えているが焦点が合っていないような感じのものがほとんどではないかと思います。 はっきりなにかを見据えてる訳じゃないのに、それでもなにかみすかされたような気持ちになるような目です。

ある剣術の指南書のなかに極意として書かれいる一節の中に、 相手と対峙したときに相手を「見る」のではなくて「観る」ことそれこそが極意だという一文があるそうです。

太刀筋を見ようと刀ばかりを凝視していたら勝負には勝てない。観るとはなにか一点に意識を集中するのではなく、言うなれば広く浅く大きく神経を集中させることだということだそうです。

相手の全体を観ることで、足の動き、指の動き、一連の動作の流れを感じることができるという。そうして初めて太刀筋が観えるといいます。

これは一流のボクサーもなにかの本で同じ事をいっていました。パンチをよけようとして相手の手をみてるやつはいないと。

さらに最近では陸上の為末選手がハードルを跳ぶときにハードルを意識しないで周りの景色と一緒なんだって観られるようになったら記録が伸びたといいます。

何か一点を見つめているとそれははっきり見えるけど物事の全体像が見えていないことが多い。

たしかにそういわれるとそうかもしれません。

最近では目先の利益に走ったような事件が多いけど、もうすこし物事を大きく「観る」ってことが本質をとらえるコツなのかもしれないと感じました。

 

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