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先日、ある方と「祈る」ということについて話をしました。そこで感じたことです。
自分は祈るだけで世界が変わるならもう世界は変わってるはずだ。なんて言ってしまったことがあります。しかしそれからよくよく考えてみたら、祈ること自体ではたしかに何もかわんないかもしれません。超能力とかがあるなら別ですが。
でも何かを祈ろうと思う気持ちを持つことで、手の届くところにいる人や、自分の周りだけにだけでもすこしいろんなことに寛容になれたり、優しくなれたりするかもしれません。
ようは祈るという行為に意味があるのではなく、祈ろうと思う自分に意味があるということなのかもしれません。だから祈りというのは、その行為を通して、ベクトルを内側に向けるためのものとも受け取れるわけです。いままで自分は祈るということの矢印は外側に向かっているとだけ思い込んでいたわけです。
見方を変えると、受け止め方が劇的に変わるということもあるみたいです。
そういうことに気づかされて目からうろこが落ちて、いままでの自分の視野の狭さと、みえていなかった世界と感覚があったことにうれしくもなりました。
事実だけを、目見えるものだけを捉えるんじゃない。そこを通して自分が何を得られるかということは無限の可能性で、むしろこれは飛躍しすぎかもしれないけど、受け止め方次第では一つの事実にすべてがあるというところまで行きつけることもあるのかもしれないと思いました。
仏像だってただの木だといってしまえば、それまでですが、大切なのはそれを通してなにを観るか。ということなんだと改めて再認識させられました。
遠藤
10日掲載拝読させて頂きました。
車であればリバースに入れてやれば済んでしまう処、自我は進むことにしか熱心になれない様で、虚心坦懐に受入れ続ける器量をどう養っていけばよいのか悩む処です。
ある時観えたと思ってもその心境を維持することが出来ないのです。
見方によって、観方が違うとは至言ではないでしょうか。
南無阿弥陀仏に万感が籠められていると思いますが、その言葉をその意図する意味で本当に観ることが出来る人は少ないのではないでしょうか。信ずるものは救われるはずですし、何の留保も無くそう思います。ただ、純粋さが必要で、それをとうの昔に失ってしまった様です。寂円寺には器量を感じます。その空気感のなかで何かヒントを観つけられればと祈念しております。
副住職
純粋と言う言葉は一言でいうと、簡単なようですが、本当に難しいことです。シンプルなことこそ本当にとらえるのが難しいものですね。
子どもをみているとその辺はすごいなぁと感じます。時に考えすぎると見えなくなってしまうこともありますね。