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先日あるお寺で、仏像をめぐるトラブルがあり、そこのお寺でお話を聞いてきました。詳しい内容は長くなるので割愛しますが、その話の中で感じたのは、
そもそも、お寺という場所は、信仰というものに支えられている場所です。更にいえば、お寺があり、仏像があるところに、信仰があるのではなく、信仰のあるところに、お寺があり、仏像があるわけです。
同じようですがこの順序というのはとても大切なとことような気がします。そこを間違うと本末転倒になってしまうような気がします。
何事も「そもそも」と原点を省みるというこは大切ではないかと思います。
世間では、今、選挙一色ですが、そもそも、政治は誰のためにあって、政策というのはなんのためにあるんでしょうか。そして、豊かな生活、幸せな国というのはなんなんでしょうか。
そこを自分たち一人一人が真剣にしっかりと考えなければ、進むべき方向というのはこれからも定まっていかないのかもしれません。
まずは自分自身の中にしっかり矢印を向けてみることはここでも大切なことだと感じます。目を凝らしてみると、それを忘れた本末転倒という言葉が、そこらじゅうに転がっているような気がします。
遠藤 正樹
8月31日掲載拝読させて頂きました。仏作って魂入れずとも言えば、何事かおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる、 とも言う様です。世の中ことの本質、軽重を見抜く目利きだけであれば世話はありませんが、現実はご案内の始末です。そこが又面白いのかも知れません。日本は宗教心と言うものが希薄です。生まれた時から宗教的なバイアスがかかっていません。ですから標準的な日本人は宗教的には初心者なわけですから、形から入ると言うアプローチもありかなと思って居ります。生きていく中であれやこれや悩むうちに、宗教的なしつらえに引かれやがて信仰に救いを見出すと言うケースはありかなと思います。私の家族、兄弟は皆寂円寺の佇まいを好ましく感じて居ります。品格があるからです。その様な空気感のなかで芽生えるものは芽生えてくると信じて居ります。遠藤 拝
副住職
ほんとうにそうですね。まえに三願転入について書きましたが、親鸞聖人も本当の意味でお念仏に出会うのには段階があるといっています。人間は方便なくして、阿弥陀の願いに気づくことは難しいとおっしゃっています。まずは形でも手を合わせること、お念仏を唱えること、そこが縁になり、信仰というものに気づかされていくのかもしれないですね。
そのために、まずは足を運んでもらえるようなお寺にしていきたいと思っています。