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先日お彼岸の法話の後に、「我慢」というのは仏教ではどうとらえるのか、ということで、お声をかけていただきまして、自分なりに我慢ということを考えてみました。
仏教には「忍辱」という言葉があります、これは行の1つで、あらゆることに耐え忍び、平常心を保ち、寛容に生きていくということを指すわけですが、こう書きますと、嫌なことや、つらいことを我慢して、耐え忍ぶこと、ぐっとこらえることだと受け止めがちになってしまいますが、仏教でいう、忍辱とは我慢のことを指すわけではないようです。
我慢というのは、人間ながくは続かないものです、お腹の中にぐっと溜まった我慢は、いつか爆発するか、しなければ体や心のバランスを崩す原因にもなるかもしれません。
実際自分自身、長い間我慢をしていると、ストレスも溜まりますし、小さなことでイライラしてしまったり、許容範囲が狭くなってるなぁと感じます。
仏教では、我慢を以下の七慢の1つとして分類しています。説明文を他のサイトから引用させていただきます。
1「慢」他と比較しておごり高ぶることを意味します。
2「過慢」自分と同等の人に対して自分の方が上だと思う。
3「慢過慢」自分より優れた人に対して、自分の方が力量があると思い誤ること。
4「増上慢」自分が一番正しくて、他人はみんなろくでなしと思ってしまうこと。
5「我慢」自分に執着することから起こる慢心のこと。
6「卑慢」実は自分はすごいんだ、という傲慢さがにじみ出ている人。
7「邪慢」徳もないのに、「自分は徳のある人間だとしたり顔をしている人。
このように我慢とは、仏教では、慢心であるというとらえ方をします。日本人の美徳として、耐え忍ぶということは素晴らしいことですが、それが行き過ぎてしまうと、つい、我慢してるのに!こんなに我慢したのに!我慢させやがって!などと心の中に、怒りや苦しみや、ねたみや、そういうものを生み出す原因にもなってしまうわけです。
また、不満な状況や環境に遭遇した時に、なんで自分だけがこんな目に・・・とか、お金があれば回避できるのに・・・とか、あれが手に入ればなんとかなるのに・・・など、いかにその状況を回避しようか考え、そこにとらわれてしまうことで、現状をしっかりと受け止め見つめるということができなくなってしまいます。
こちらも引用ですが、良寛和尚の有名な言葉に、「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬる時節には、死ぬるがよく候。」とあります。「災難や死には普段からそれぞれ備えをなすべきで、その場に臨んだら避けられないのだから、災難や死に徹して生きよ」(松原泰道「心の杖ことば366日」海竜社)ということです。
つまりは、仏教でいう「忍辱」というのは、我慢して耐え忍ぶことではなく、いかに目の前の現実を受け止め、とらわれずに生きていくかという意味があるのかもしれません。現実に目を向けて、それを自分の中で受け止め、その現実に、つきあっていこうと思える腹の据わった姿勢と、心持ちが忍辱ということなのかもしれません。
そうはいっても、人間、つねにいろんなことを我慢をして、ストレスをため込んでいきているものです、いきなり頭を切り替えてそうしましょうといってもなかなかできるものではありませんが、仏法に触れ、頭の片隅にでも、仏法のいう忍辱という言葉をとめておくだけでも、少しづつ心や行動に影響してくるのかもしれないと思います。
今回法話の後にお声をかけていただき、このように自分自身、考える機会をいただきありがたく思います。いつでも気軽にお声をかけていただき、聞法の機会をいただけたらと思います。ありがとうございました。
副住職
遠藤 正樹
我慢についてのご卓見拝読させて頂きました。とても分かり易い論理展開で助かります。ありがとうございました。
器量小さき故に我慢を要すとは日々痛感する処です。又、災難やら死やらに直面すればじたばたするのが必定のわが身ですから、その時じたばたすればよいので、今からじたばたすることは無い位の開き直りが精一杯の処です。器量との格闘も求道の一つかも知れませんが、残り少ない時間に鑑み、取り敢えずビールと落語で憂さを晴らしており、この調子で終末を迎えそうです。何構うものかと居直るふてぶてしさのみ身に付いたと言う処でしょうか。情け無い話しで恐縮です。 遠藤 拝