11月9日から16日までタイのチェンマイに行ってきました。
今回、タイのチェンマイにある、マハチュラコン大学の建てた、MeditationCenterに籠ってきました。世界各国タイ、ミャンマー、ネパール、スリランカ、インド、チベット、ブータン、ラダック、韓国、中国をはじめ、たくさんの上座部のお坊さんや、各国の在家信徒の人たちと生活を7日間生活を共にしてきました。
毎日瞑想三昧で合計何時間瞑想したんだろうかというくらい瞑想しました。ここで感じたことは言葉にすると伝わりにくいので、熱をもって話したいので、興味のあるかたは、直接お話しできたらとおもいます!(ここの話だけでそうとうおもしろいです。自分でいうのもなんですが)
本当にこの7日間、自分の意識の置き方、日本の抱える問題や各国の抱える問題とそれに向き合う気持ちとか、ほんとうにいちいち金槌で頭をぶんなぐられるような感じでした。
ミャンマーの現状や、インドのカーストの話や、津波の後のいまのスリランカの現状とそこで活動する人たちの想いとか、タイ仏教の現状やチベット問題についてとか。日本の抱える自殺の問題とか、ほかにもかききれないくらい。たくさんの話をリアルにきいて、自分の中では改めて、テレビのニュースがただのニュースじゃなくなった気がします。
そして今回一番強く感じたことは、やっぱり仏教は実践なんだということです。
実践というと、社会的な活動とか、修業とか、どうしても物理的なものばかりが取り上げられがちだけど、そうじゃなくて。心の中に仏教があるかどうかという意味で。
進むべき道に悩んでいた自分にインドネシア人が、ノートにこんな言葉を書いてくれました。
buddism is being not only doing
自分なりの意訳ですが、いまここ。いまここにいる自分と心が大切だと理解しました。
世界の抱える問題の前線で、活動を続けるたくさんのお坊さんたちや信徒の人たち、自分のつたない英語をちゃんと最後まできいてくれて、真剣に目を見て話をしてくれて、誰ひとりとして、日本からきた若造の話を聞き流してる人がいなくて、(むしろ聞き流してほしい時もあったのに)そんな姿勢1つ1つに、仏教のすごさというか、実践することの大切さとか、そんなものをまざまざと見せられた気がしました。
実践とはあくまで自分の中にどう落としているかどうかということなんだろうと思います、それさえできていれば、どんな行動でもそれはEngaged Buddhismになるんだろうと思います。
熱は高いところから低いところへ流れる。
今回、自分が誰かに熱をわけてあげられたかはわかりませんが、いま自分の心の中はものすごくあったかいし、たくさんの熱量と気持ちと、経験と意識もって帰ってこれたと思います。
きっとこれから先の自分の人生の中で、確実に自分の核をつくる要素になるであろう大事な想い。自分の進もうとしていた道や目指していた仏教の道の先に曇っていた霧がすこしはれた気がしました。さぁと背中を押された気すらします。
そして、たくさんの宗教や人種、それぞれを取り巻く環境や立場があるけれど、やっぱりみんな一緒で、なに人でも、笑ってて泣いてて怒ってて。、同じ感情を持ってるわけで。
だから答えだって1つなんだと思います。
これから時間をみつけて、この旅の間に描きためたメモを反芻しながら、大切なことからどうでもいいことまで、少しづつ切り取って書いていこうと思います。
また興味のあるかた、ぜひお話がしたいので、次回お会いした時にでもお気軽に声をかけてください。
副住職
遠藤 正樹
副住職さま。タイでのご体験拝読させて頂きました。大収穫でよかった。『いまここにいる自分と心が大切だ』とのお話しにつき、仏教の教えに沿った行動をしていても、心が伴っていなければそれは無価値ではないかと私なりに解釈させて頂きました。心が本物であれば、どんなささい行動であっても本物の価値があると思います。ですから尚更難しいのです。心のレベルは次元が違い過ぎるからです。そのレベルに達しておれば答えは一つになるのだと思います。次の機会にお話しをお聞かせ下さい。遠藤 拝
副住職
今回の一番感じたのはそこです。実践というのは行動のうんぬんではなく、その行動がどこからでてくるものなのかという部分をつよく意識することの大切さを学びました。自分は仏教徒です。といいながらいらいらして、怖い顔でだれかを蹴落としているのでは、ちょっとちがうと思うと、いうことをラダックのお坊さんもいっていましたが、やはり実践という意味で、まずはじめに自分にできるのは笑顔と、笑顔でいる心をつくっていくことなんではないかと思いました。
遠藤 正樹
副住職さま。
そうですね。先ずは簡単なことから真心をこめて始めれば良いのですね。チャレンジします。遠藤 拝