そして自分が目を閉じて手を合わせたら、みんながそれを真似て手を合わせていたのですが、それをみていた3歳の子どもが、なんでそうやって手を合わせるの?と聞いてきました。それはシンプルだけどとても深い質問で、一瞬なんて答えようか迷ったのですが、こう答えました。
例えばさ。
ピースしたまま、ごめんなさいっていうのはちょっとおかしいよね。
朝起きて万歳しながらおはようっていうのもおかしいよね。
あとさ、おうちに帰るときに変な顔したまま、さようならっていうのもおかしいよね。
こうやって手を合わせるのはね。
ありがとうを伝えるときのポーズみたいなものだよ。
いままでありがとうっていうときにはこうやって手を合わせるんだよ。と。
きっと教義とか、教えとかそういうものを厳密に突き詰めていったり、手を合わせる意味とかをちゃんと説明しようとしたら不十分だし、いい加減なように聞こえるかもしれないですが、それを聞いた子どもたちは、ふ~んといいながら、目を閉じて手を合わせて、いままでありがとういった。
3歳の子どもにそれを伝えているときに。
こういうのを方便というのかもしれないと思いながら、これから先の人生でその言葉の意味の何十分の一でもいいし、自分のいった言葉がどこかにつながって、その言葉に体感が伴ってくれたらいいなと思いました。
なんか改めて、子どもたちの中に湧いてきた、本人すらもまだそれがなんなのかわからないような気持ちとか、そういうものにそっと手を添えて、その気持ちにベクトルを向けるということはとても大事な事で、とても責任の重いことなのだということを感じたような気がします。
遠藤 正樹
副住職さま
目に浮かぶようなエピソードですね。ここのところいいニュースがありませんから、この様な話はとてもいいです。副住職はもとより寂円寺の皆さまは分かり易くお話をして下さるところがとても助かります。常日頃自分の言葉でお話をされておられるからと拝察しております。これからも分かり易さモットーにしてください。
遠藤
副住職
かみ砕きすぎて、ピントのずれた話にならないようにしなきゃといつも自分を戒めながらがんばりたいとおもいます(笑