金子大栄先生の浄土の機縁」の直声の法話のデータをもらったので聞いたのだけど、言葉の一つ一つが腑に落とされるような感じ。これこそがまさに「ご了解」なんだと感じた。
自分の感じたことをつらつらと語って、感想文みたいなものをこれが我がご了解だなんて言っている自分があまりにも小さく感じるほどに。金子先生の見ている世界のかけらでも自分に見える日が来るんだろうか。なんて大それた事を思うもすぐにそんな日はこないだろうと思い直す。
「浄土はこの世ではない。したがってこの世にいる限りは悟りを開くということはできない、悟りはこの世とは陸続きではないところにあるということ。そこを理解できなければ浄土教はなりたたない。本願も念仏も意味を失う」
「如来の本願と人間の理想はかけ離れている、だからこそこの世を浄土にすることができない。この世と浄土は断絶されている、しかしながら人間の理想を断念することで感じられる本願の世界は、もっと深い意味においての理想の世界であるとも言われるかもしれないが、ともあれ、浄土教に説かれる浄土はこの世でなく来世である」
「親鸞聖人の生涯を貫いてみられることは、時代悪のうちおける人間の悩み、あるいは社会悪に悩むところの個人の悲しみと言い表せるかと思う」
一見あたりまえな事を言っているようなのだけど、この発される言葉の一つ一つに今の自分にはのせられないものがのっている気がした。あたりまえだが、同じ事を自分が言っても誰にも伝わらないだろう。そこに実感は伴っていないし、実感を伴えるほど勉強もしてないし、体感もついてきてないからだと思う。
なんかいろんな人の話を聞いたり、いろんな場所に行ってみて、言語とか、言葉の字面とかじゃなく、言葉には、発する人しかのせられない特有のものがあるという思いは最近核心に近い。
そこをしっかりくみ取ることができれば、意思疎通で大きく食い違うことはないと思うし、真剣に目を見て会話をすれば、その人の会話のどれだけに実感が伴っているかなんてことはわかるんだろうと思う。どんなに背伸びしても、ボキャブラリーを駆使しても伝わらないものは伝わらない、伝わるものは伝わる。
字面でいい法話をできるようになるのはそのうちできるようになるだろうけど、同じ字面でも伝わるか伝わらないかの違いというのがあって、その間にあるものがいま自分の身につけなきゃいけないものなんだろう。
それと。
やはり思ったのは。
「凡夫」である自覚というのは言葉にするのは簡単だが、これに体感を伴わせるのは並大抵ではない。
戦争を望むのも平和を望むのも、相手を受け入れるのも批判するのも、希望を見いだすのも、絶望にうちひしがれるのも、自己保身と、欲望と自己愛の中から生まれてくることで、いつも自分は正しく相手が間違っている。という思い込みから生まれるのだ。社会的評価やどちらが多数決で多くの賛同を得るかなんてことは関係ない。
自分の怒りはそのまま相手を肯定する唯一の証拠でもある。
浄土教はよく、自虐的だとか、あきらめすぎとか、そんなこといってたら弱肉強食のこの世の中で生き残れないとか言われるけど、自虐的でも弱肉強食でも、それで自分が生き残れないならその時は地獄も一定すみぞかしなのかもしれない。
でも、言うが易し、それを本当に貫くとなると、やはりそこにどうしても「お念仏」というものがなければならないのだろうと思う。
なんか宗教離れとか、仏教離れなんて言われて、あたふたしているお坊さんもいるようだけど、正直言うと、しっかりと自分の中で真宗の教えを味わいそれを、しっかりと伝えることができるようにさえなれば、必ず誰もが必要なものであると思えるので、自分の場合はなんの心配もしてなかったりするのです。
副住職
遠藤 正樹
副住職さま
浄土の機縁拝読させて頂きました。
門外漢を建前だけで煙に巻くのは容易かも知れませんが、ご自身で検証したものを伝えていくのだとの信念をこのブログで何度も感じて来ました。民衆の中に分け入っていくのが我が浄土真宗だと思いますし、寂円寺の教えも自分なりの解釈では明快であって、娑婆から彼岸へ渡ると浄土があり、そこに行くには南無阿弥陀仏を唱えれば良い。又、現世にあっては楽しいことは我慢せず楽しんで良く、ご先祖は勿論この先の我身も含め後は万事阿弥陀様にお任せで良いとの解釈です。私は教わる方ですからその程度で済むかも知れませんが、教える側に居られる方はとても大変なことだと感じます。何より檀家をずっと守っていくお寺さまはとても大変な立場であるとも感じ同時に感謝しております。
遠藤