震災からもう少しで1年になりますが、震災以後、幸せとはなにかということを深く考えさせられます。
今、自分が幸せは何であろうかということを、突き詰めて考えるとする。それを考え抜いた末に、自分なりの理論や持論をみつけたとして、それをせっせと自分の中に還元しながら、日々を安穏と、そして穏やかに過ごしていたとします。
そのまま年をとって老人になった時に、大きな地震がきて、もしくは津波がきて、家族や家や、友人を奪い去ってしまうかもしれない。それはどんなに自分の中で鍛錬をしていても、どんな人生を歩んでいても、その悲しみをぬぐい去れる術なんてないような気がします。
つまりは「幸せ」というものはそういうものなのかもしれません。
自分に関係ないところで、つねに動き変わり続け流れ続けているこの世界で、幸せもつねに動き流れている。数年後の未来や数十年後の未来の幸せの為に生きて、今なにかを積み重ねたとて、それはもしかすると砂上の楼閣なのかもしれません。
災害に見舞われなくなって、10人に1人は60才まで生きられないそうだし、2人に1人は癌で死ぬそうで、自分も例外なくそこに組み込まれているわけで。悲しみに暮れてうちひしがれて死んでいく可能性を十分にもっているわけです。
人間の人生なんてものは、事実を見開いて見つめればそんなものなのだと思います。蓮如上人のいう後生の一大事に気づくということはそういうことなのかもしれません。
ただ、だから悲観して、どうせがんばってもしょうがないというわけではなく。
だからこそ、今この一息でこの文章を書いていることも、この一息で深呼吸することももっと大事に思えるような自分でありたいし、そういうことを思う余裕を持てるだけの自分を保っていられるための精進だけはしておきたいと思います。
社会の中で生活をしながら生きていれば、山里にいるわけではないし、稼がなきゃ家族を養えないし、食べていくこともできません、そうしてなにかに追われていれば、一息を大切にするなんて気持ちなどすぐに忘れてしまうのですが、でもせめてそれを思い出す頻度をもっと高めたいと思います。
幸せというものは次の瞬間にはなくて、今の瞬間にあるかどうかというようなものかもしれません。
こういうことを思える自分を保つということは大変な事で、その自分をどうやったら保てるかということを突き詰めていくことが仏教でもあるのかもしれないということを最近感じています。
副住職
遠藤 正樹
副住職さま
後生の一大事、拝読させて頂きありがとうございました。とても悩ましい問題だと思います。過去は確定、将来は未定、マネッジできるのはこの瞬間だけでしょうから、私は過去と将来にできるだけ煩わされないよう気をつけております。ビクビクするなと自分に言い聞かせ励ましているのが恥ずかしながら実情です。これから最後の事業に挑むわけですが、これとて全ての人ができて来たわけですから多分自分もできるのであろうと思っております。その過程で宗教の比重は増していくのだとも思います。尚、私の場合、今を生きるヒントにつきセネカから得る処はありました。( http://en.wikisource.org/wiki/On_the_shortness_of_life )遠藤
副住職
惑わされないようにしていてもビクビクしてしてしまうのが実情なのはみんな同じなのかもしれないですね、親鸞聖人もそうであったかもしれません。
セネカの言葉には、仏陀にも通じるものがたくさんありますね、やはり人間の根本的なものは突き詰めていくと同じ所に行き着くのかもしれませんね・・・