先日、ある勉強会で「子どもを通してみる仏教」という勉強会を企画させて頂き、参加者の方々と有意義な議論を交わしてきました。勉強会は2部構成で、前半が「仏教保育の沿革」「保育の現状・問題点」、後半は「現場で感じること」という内容でした。
この10年、幼少期の子どもたちを取り巻く環境は大きく変わってきています。日本の学校教育法、またこの度施行された子ども子育て支援法には「子育て」の基礎となるのは「家庭」であるという言葉が記されています。しかし社会の大きな流れの中で「子育ての外注化」とも呼べるシステムや制度が基本設定になり、その制度の多くは、「親」の為の制度であり、子どもの目線に立ったものではないように感じます。
待機児童問題や長時間保育の問題の根底にはこの視点の違いがあるように感じます。世界の中でも16時間保育、24時間保育を実施している先進国は日本だけです。
そのような大人の価値観から制度が設計され、子どもにどのような変化があるのかということを現場から見てみますと、例えば、先日ある女の子が部屋でおままごと(最近では家族ごっこといいます)をしていました。その中でお母さん役の女の子が、食事をしている他の子どもに「はやく済ませてしまいなさい」と言っていました。
忙しい日々の中では食事とは「味わうもの」「感謝するもの」「楽しむもの」ではなく「身体の栄養をすばやく摂取する為の時間」になってしまうのかもしれません。そこには大人、そして家庭での価値観が大きく影響しているように感じます。子どもに食事の尊さ、大切さ、美味しさという感性を伝えるのではなく、時間的に効率よく「済ませ」「片付ける」ことを図らずも伝えてしまっていることが少なくないようです。
「宗教なき教育は知恵ある悪魔を育てる」という言葉があるそうです。現代の「効率性」「有用性」という大人の物差しでは「奇麗だね」「楽しいね」「寂しいね」そんな人間の本来持ちうる感情や感覚は評価されたり点数がとれるものではありませんが、逆に「知識」「経験」が豊富であると言うことは評価の対象であり、直接点数に結びつくことです。
しかし、教育者・親・宗教者はそういった社会の尺度ではないところにその価値を見出さなければいけない立場にあるはずです。
感性という太い根が張っていれば、大きな木が伸びていくように、子どもたちが知識や経験を積み、幹を太くし、枝を伸ばしていくときに、枝が途中で折れようとも木は腐りません。感性という根が張っていない木は、枝や幹が風雨で折れたら芽が出ないかも知れません。
人間が壁にぶつかってどうしょうもないときに、肩の力を抜いて、背中を押してくれるのは、ふと吹いた風であったり、道に咲いている花であったり、時に知らない人と交わす些細な挨拶であったり、そんな些細なことなのかもしれません。そしてそうやって救われる度に人は自分が1人で生きているのではないという実感をもつことができるのではないでしょうか。そしてその心こそが宗教心の根っこであると思います。
その実感、感性こそが、人が生きる上で一番大切なことであり、幼少期にしっかりと育んでおきたい大切なことです。
子どもを取り巻く環境が大きく変わる中で、経済や社会の効率性だけに引っ張られた大人の尺度での制度だけが一人歩きしていかないように願うばかりです。
副住職
遠藤正樹
副住職さま
「子どもを通してみる仏教」拝読させて頂きありがとうございました。子どもは親の背中を見て育つと言いますから、幼児期の家庭環境はその後を決めてしまいかねませんね。現場では親の顔が見えてしまうときがあるのではないでしょうか。幼少期に立派な先生に出会えるかどうかは第二の運のはずです。人は人からしか学べませんから。遠藤正樹
副住職
「子どもは親の背中を見て育つ」というのは本当にある意味ではこわいですね、いいほうに作用してくれればいいんですけど(笑)
家庭環境が子どもに影響をするということは大きいと思います、そしてその家庭環境はやはり社会やその時代背景が大きく影響してくるような気がします。
幼少期に限らずよき友、よき先生にであえるということは第二の運、よき善知識に出会えることは幸せなことですね。
遠藤 正樹
副住職さま
人生つくづくご縁ですね。絶対外せないご縁が家族で、次に先生です。特に幼少期にあっては年長者イコール善ととらえてしまうのが普通でしょうか。人生いつまでも後ろ姿をおろそかにできませんね。歳のとり方くらい難しいものはないと感じる今日この頃です。
遠藤正樹