寂円寺徒然日記
感性の世界。
先日ある研修にいくと冒頭で、とある幼稚園の園長先生が
私動物の声が聞こえるんです。
植物の気持ちがわかるんです。
最近なにとでも話ができるような気がします。
とおっしゃいました。
会場にいた若い先生たちがその話をききながら、ぽかんとしていると、みなさんも、そんな気持ちわかりませんか?
と問いかけられました。
一瞬う~んと頭をひねってみたのですが、ふと幼稚園の日常生活を思い出しますと、
子どもたちの生活の中にはそんな光景がたくさんあることに気づかされます。
例えば絵本の世界です。
あるクラスで、先日動物の床屋さんという話を読んでいました。
ある床屋さんに、ワニや、羊や、いろいろな動物がやってきて、床屋さんが試行錯誤しながらその動物に似合う髪型を考えるというお話でした。
他にも、絵本の中では野菜が話をしていたり、豚や、雲や、木やさらには車やおもちゃまでが、何食わぬ顔で話しかけてくるわけです。
子どもたちは、絵本の読み聞かせをする中で、その世界に没頭していきます。
その中で、自分自身がその物語の一人の登場人物になりきるわけです。
読むというよりは、はいっていくという感覚に近いように感じます。
例えば怖い場面になると、主人公といっしょに目を閉じたり、息をのんだりと、
うしろうしろ!と思わず声が出てしまう子もいます。
そして絵本が終わると、その余韻の中で想像の世界を膨らませていきます。
そして余韻の中で、子どもたちが遊びを展開させていくこともあります、動物になりきったり、お店屋さんごっこを始めたりと、絵本の世界は子どもたちにとっては新しい遊びの引き出しでもあるわけです。
そして、子どもたちは絵本によって様々な世界を想像的に体験できます。
この世の中には自分の知らない楽しみや苦しみ、どうすることもできない哀しみなどがあることを知ることで、他者を思いやる心や、命を尊ぶ心、そしてなにかを慈しむ心など、物語の中に入り、その世界を疑似体験することで知らず知らずのうちに心の中に育まれていくように感じます。
 
また、本を仲立ちにして、親子であったり、兄弟、先生や友達など、他者と共に考えたり感動を分かちあったりすることによって情操が育まれると同時に、自分のありのままの感情を分かち合う中で、自己肯定感も育まれます。
そんな光景をみていますと、教育のありかたについて考えさせられます。例えば、「これは絵本の中の話だからね、本当は野菜は話さないよ、動物は話さないよ。これは子ども向けの話だからね」と現実と、非現実の区別をしっかりとつけること、科学的な考え方をすることだけが教育の大切な目的かというとそうではないように思います。
たしかに大人になって、いつまでも、夢うつつでいることはできませんし、現実の世界で社会の仕組みをしり、科学でものごとをみなさいといわなければならない場面もたくさんあります。
しかしその現実を知っていることだけが、すぐれていることではなく、その現実を覚えていくことだけが教育かというとそうではないと思うわけです。
よくよく考えてみますと、私たちの中には、つい返事がないことはわかっていても、愛犬に話しかけてみたり、さらには手塩にかけて育てた野菜や植物に話しかけてみたり、時に山や雲や木に、自分の思いのたけをつぶやいてしまうような自分がいるのではないでしょうか。
この現代社会の中で、動物に話しかけたり、木に話しかけたり、手を合わせてるのは、一部の未開の民族だけで、文明人である私たちは、そんなものが話さないのは知っているぞ。というだけでは片付けられない思いというものが私たちの中には流れているわけです。
アニミズムという考え方があります。生物・無機物を問わないすべてのものの中に魂のようなものが宿っているという考え方です。魂とかいいますと、頭ごなしに非科学的だと、この科学の発展した世界でそんなことはナンセンスだと感じる人は多いのかもしれませんが、
私たちの心のどこかに、森がないてるとか、地球が苦しんでるとか、そういう感覚が全くなくなってしまったらと思うとこわいような気がします。
知識や科学も大切なことですが、それと同じくらい、人間心の中に本来持ち合わせているはずの心を閉ざさずに、育んでいく環境というのは大切なことです。
ある本の中に「宗教なき教育は、知恵のある悪魔をうむ」という言葉がありました。
私は宗教というものの根底には、このような理屈では片づけられない、人間が本来持ち合わせている感覚が流れているように思います。そしてその感覚は感性の世界から生まれてくるものであると思います。
感性というものは例えば、「きれいだね」「うれしいね」「かなしいね」人間がふと素朴にわいてくる、本来もちあわせているあたりまえの感覚です。
その心がしっかりと育まれ、自分の中に肯定されていくことで、その感覚は自分以外の他者へ向けられたものに育っていくのではないでしょうか。そしてその心は宗教心の根底にあるものだと思います。
「願い」や「祈り」その心を生み出す心の原動力は感性であると、そしてその感覚は、そのまま人間の生きる力に直結していくのではないでしょうか。
仏教の世界にも「 一切衆生悉有仏性」という言葉があります。
すべての生きとし生けるものには仏性、すなわち仏となる要因があるということです。
現代は、情報社会、物質社会、成果主義ということがいわれています、その中でそういう感覚、心が失われてきてしまっているように感じます。
「おてんとさまが見てるぞ!」という言葉の意味をご存知の方は多いと思います。「日の当たる場所を歩けないようなことをしてはいけない」ということも同じ意味で使われることがありますが、現代の子どもに「おてんとさまが見てるぞ!」といってもきっときょとんとしてなんのことかわからないというのが現実ではないかと思います。
その心は人間として、ここ一番で自分自身を踏みとどめる理性であり、同時にここ一番で自分自身を支えてくれる大きな力であるような気がします。それを完全に失ってしまっては大事なことを見失ってしまうような気がします。
そして宗教というのは、その心の中で、人間の有限性、分限のようなものに思いを馳せるところに発端があるように感じます。
山をみて、海を見て、桜を見て、おてんとさまをみて、自分の理屈をこえたものに心が軽くなる実感のようなものを人間は心の根底に持ち合わせているような気がします。
有限性を感じることではじめてそこから対比されたなにかが浮き彫りになります。
その何かが、時に仏となり、時に浄土となって形作られるのかもしれません。
「おてんとさまがみてる」その想いはそのまま阿弥陀様の姿であり、その存在がそこにあると、常に見ていてくださるという感覚こそが、私たちがなによりも忘れてはいけない願い、救いに結びついていくように思います。
そして「南無阿弥陀仏」お念仏の心も、感性の世界の中にあるのではないかと思います。
この言葉になにか理論的な意味や、また呪術的な効果があるわけではなく、南無阿弥陀仏その一声が自分の中から出てくる、その一言が口をついて出た時に、その根底にある自分自身の声に気づき、その声を発した私自身にもう願いをかけられている存在に気づかされるわけです。
曽我量深という方がある著書の中で、お念仏とは、人間回復の機縁であると書かれていましたが、人間回復というのは、理解とは別の部分で腑に落ちる、心に響く感覚を忘れずに大事にすること、このような気持ちの上にあるような気がします。その心があって傲慢にならずに謙虚にいきていくことができるのかもしれません。
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