寂円寺徒然日記
年の瀬の園庭。


4月に始まった新学期もあっというまに12月、
今年も残すところあとわずかになりました。
幼稚園の園庭では、寒さに負けることなく、子どもたちは毎日園庭を元気に走り回っています。


園庭の様子も日々少しづつかわってくるのですが、
この時期の園庭を眺めていると、とても尊いなと感じることがあります。
私はこの4月でも5月でも6月でも7月でもなく、10月の運動会が終わってからの11月12月園庭の様子がとても好きです。


不安でいっぱいな新学期、子どもたちは園庭いっぱいに広がり、自分の居場所探しをします。
そして居場所探しをする中で、少しづつ仲間を増やして、その関係性を楽しみながら、園庭いっぱいに広がっていた子どもたちは、少しづつ小さな輪になり遊びはじめるようになります。

それでもまだその輪は、自分と自分の気の合う仲間の小さな輪、その小さな輪は、運動会の練習が始まった頃から、やがてクラスの輪になり、クラスを超えた輪、学年を超えた輪になりはじめる。そしてそのたくさんの小さな輪が、やがて大きな一つの輪になっていくような実感があります。その心の距離はそのまま物理的な距離になって、子どもたちの間にある空間が小さくなっていくことを感じます。


その変化はとても顕著で、4月からの園庭の様子をずっとビデオかなにかで撮影してたらとても面白いものになるんじゃないかと思います。ある園長先生は、そのことを「園庭の嵩が減る」とおっしゃっていた。若い頃にはその感覚がわからなかったけど、いまははっきりとその嵩の増減がわかります。その嵩の増減がそのまま、自分たちのしてきた保育の答え合わせでもあるように思うことがあります。

 
居場所ができて、気の置けない仲間の中で、遊ぶことに没頭できてはじめて生まれてくる遊びの数々、そしてそれを彩るたくさんの自然の恵み。
芋の弦で綱引きをして、落ち葉をあつめ、もみ殻を吹き、白い息を吐きながら、おままごとをして、高度な鬼ごっこが子どもたちだけで完結していく。
ただ繰り広げられるそんな日常の中に、本当に信じられないくらいたくさんの変化があって、なによりもその変化や空気の中で心地よさそうにしている子どもたちの表情はとても尊い。

 
いつまでもこんな顔で生活をしていけたらいいのだろうけど、そうもいかないことにぶつかることもこれからたくさんあるのだろうと思います。だからこそ、社会にでて、なにか辛いことや苦しいことがあった時に、この原体験や心地よさが、ここ一番で自分を支える何かになってほしいと心から切に願いながら、今日も園庭で鬼ごっこをする師走の日々です。


副住職

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