寂円寺徒然日記
さくら。


先日上野公園に行ってきました。
花見客でごった返す桜をみながら、
こうして今年も桜を見ることができてよかったなとしみじみ感じました。

「散る桜、残る桜も散る桜」

良寛さんの言葉だそうです。

桜をみながらこの言葉を思い出したのですが、
お花見の浮かれた気持ちに水を差すような、
ふと我に返るような気持ちになりました。

その響きになにか避けることのできない四苦、
そして有限な命を生きる人間に対する諦観のような響きを感じます。

「諦める」というと、なにか無力で、はかない悲しみのような印象をうけるかもしれませんが、仏教では、あきらめるということは、「明らめる」という意味で用いられることがあります。

この現実を明らかにすること、その現実を我がこととして受け止めることができた時に、
そこでわいてくる気持ちや心にどう向き合っていかねばならないのか、

これが仏教の原点であり、終着点でもあるように思います。

「明らめることで諦める。」

その心はお念仏の心にもつながってくるように思います。

曹洞宗の禅僧であった良寛和尚の言葉を思い出し、
その響きの中にもまたお念仏の教えにつながるものがあるということを感じます。

そしてもう一つ、友人のお寺の門前に、

「桜は花を咲かせているときだけが桜ではない」

と書かれていました。

たしかに、この時期になると桜桜と喜びますが、桜の木は花を咲かせていない時期にこそ、
この花かせるためにしっかりと生きているのだなと、
あたりまえのことなのですが、なにかその言葉がすっと心にはいってきました。

今年はまだまだ桜が楽しめそうです。

「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

今日も1日1日を大切に、新学期を迎えたいと思います。

副住職

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