寂円寺徒然日記
運動会に向けて。


厳しかった残暑も和らぎ、突然、本格的に上着が必要な寒さがやってきたように感じます。
ぽつりぽつりと忘年会の予定などがはいり、
気づけばもう年末が見えてきてしまったなと、
時間の流れの早さを感じます。

この時期の幼稚園は、まもなく行われる運動会に向けて子どもたちは日々練習をしています。
ただ子どもたちにとっては練習も本番もあまり大きな区別なく、
行進をすることも、踊りを踊ることも、リレーや徒競走も
楽しみながらも、時に真剣に一回一回の練習に一喜一憂しています。

練習とはいえ、負けた子は悔しくて涙を流し、
勝った子は飛び上がって喜んでいます。

こういう経験の中で努力をすること、
そしてみんなで関わり合い一つのものを作り上げること、向き合うことの心地よさを感じてほしいと思います。

そんなある日の園庭で、数人の子どもたちが遊びの中で徒競走の練習をしていました。
うちの園では、年少、年中の徒競走ではゴールのところに担任の先生が立ちます。
そして走ってきた子どもを両手を開いて抱きとめます。
子どもたちも自分の担任の先生めがけて走ります。

その光景をみていたのか、練習をしていたのは年長の一番大きな子どもたちなのですが、
何人かがゴールのところに立って、向こうから走ってくる友達を両手を開いて抱きとめて、
ゴール!と大きな声で練習をしていました。
ゴールに立つ人を入れ替えながら何度も何度もその練習をしていました。

走ってくる子を抱きだきとめることは、特に決まりとして行っていたわけではなく、
一生懸命自然と走ってくるこを思わず抱きとめてしまう気持ちから
自然とそういう形になっていったのですが、
その姿が自然と子どもたちの中に印象に残っていたようです。

その練習風景が次から次に人を呼び、いつのまにか自由遊びの時間は、
子どもたちだけの徒競走大会になりました。

いつもは抱きとめられる子どもたちが、自分からだれかを受け止め、
みんなが笑顔で走り続けます。

幼稚園での運動会は、本番がすべてではなく、
こうした日々の中に運動会で伝えたい大切なことがたくさん詰まっているように思います。

浄土真宗には「自信教人信」という言葉があります。

浄土真宗は、師ありて弟子はなきと言われます。
親鸞聖人も法然聖人を終生、師と仰いでいましたが、
「弟子一人も持たずそうろう」です。

宗教の布教活動というと、理屈で相手を納得させたり、時に理詰めであいてを丸め込み勧誘しようとしたり、
絶対的な価値観を押し付けるようなイメージをもたれることもあるかと思います。
信仰という言葉を聞くと、何かを盲目的信じたり、教化というと
それを熱狂的にだれかに押し付けていくことを連想することもあるかもしれません。

しかし、親鸞聖人は法然上人のおっしゃられた善導大師の言葉
「自信教人信」をなによりも大切にしていました。

それは、法然上人の一挙手一投足、お念仏を信じる人が自然とする所作や言動、
その一つ一つに自分自身を投影しながら、理屈ではなく、
その生き方そのものが教化になっていくということだと思います。

まず本願を信じ念仏を申す身になること、それがそのまま
自然と人々に伝わっていくということです。

仏教の教えも、幼児教育も、
人に何を伝えていくということは同じなのかもしれません。

思いは言葉に、言葉は行動に、
そしてそれは生き方に。
その生き方がそのままだれかを教化していくということ。

とても難しいことだと思いますが、
その親鸞聖人の姿勢を忘れてはならないと、
改めて運動会の練習にいそしむ子どもたちの姿に思い出させられました。

副住職

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