寂円寺徒然日記
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あけましておめでとうございます。


2020年がはじまりました。

元旦の修正会にはたくさんの方にお参りいただきありがとうございます。
本年もよろしくお願いいたします

年々時間の流れが速くなっていくように感じます。
気づけば1年また1年と年を取っているような気がします。
そんなことを思いながらここ数年に感じることは、
時間の流れというものが、すごくリアリティをもってきたということです。
その流れが淡々と目の前にあるものを飲み込んでいくことに、
何とも言えない気持ちになることがあります。

いままでそこにあったあたりまえの風景や、
常識とか、日常とか、安心とかを平気で丸のみにする。

いままで誰かがいた場所に、いつのまにか自分がたち、
その場所はいつのまにか次に誰かが立つ場所になる。

「変化」というものがこれほどまでに、時に無情に力をふるっていたのかと気づかされると同時に、自分もその中ににしっかりと組み込まれているのだということに、抗いようのないものを感じて、一人の人間が生きていくということはこういうことなのかということをまざまざと感じさせられます。

それは令和でも平成でも昭和でも、いつの時代だって、何百年何千年と変わらずにそういうものなのだと思います。
その変えようのない事実に多少なりとも質感をもって感じられるようになってみると、

「独生独死独去独来」という言葉をふと思い出します。
(独り生まれ、独り死す、独り来たりて 独り去る)
大無量寿経の中のお釈迦様の言葉です。

言葉だけを読みますと、とても孤独でさみしいような気がしますが、一つの事実として、生きている間にできたご縁や身につけたこと、さまざまなものは、
いつか手放さなければならない時が来ます。この肉体ですら手放さなければならない。

そしてこの瞬間もそこに向かって少しづつ進んでいっているわけですが、
その自分自身の中にある問題に向き合えるのは、自分自身しかいないということなのだと思います。
それは、とても大きなそして重い課題であるかのように感じられますが、

親鸞聖人は

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」

とおっしゃいました。

このまさに直面する自分自身の問題について、自分自身でそれに向き合い、解決することが難しい私たちの為に、
長い時間考え抜かれ本願を建てられたれた阿弥陀仏の慈悲に感謝の思いしかないということなのだと思います。
ひとえに親鸞一人という言葉はそのまま、すべての人、その人に一人一人に向けられているわけです。

それを思うと、あらためて人間そのものが根本的に抱える問題は、
決して自分一人だけで抱えこまなければいけないものではないのだなと思うと同時に、
摂取不捨、決して一人にはしないぞという、本願に頼もしさを感じ少し気持ちが楽になるような気がします。

仏教の教え、浄土真宗の教えの中には
その時が来た時にはちゃんとそこに質感をもって感じられるような言葉が残されています。
これからまだまだ、たくさんの経典や教えの中にある言葉を質感をもって受け止められるようになる日が来るのかと思うと、
楽しみであるような、少し怖いような気にもなりますが、
まずは一歩一歩進んでゆきたいと思います。
本年もよろしくお願いいたします。

副住職

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