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コロナもすこし収束の兆しを見せ始めていますが、まだまだ先行きはどうなるかわかりません。
油断せずに引き続き感染しないように気を付けていきたいと思います。
幼稚園でも子どもたちの活動が少しづつ戻ってきています。
昨年は縮小してしまった、運動会、卒園旅行も形を変えての開催とはなりますが、
いままでと近い形で開催することができそうです。
この1年を振り返ってみますと、コロナによって生活スタイルも変わり、
さまざまな我慢をしなければいけない場面も増えました。
それは子どもたちだけでなく、大人たちもみんなが同じように、
いろいろなことを飲み込んで生活をしてきたように思います。
テレワーク、外出自粛などの我慢が長くなる中で、心の健康を害してしまったり、
テレワークなどのストレスで家庭内においても色々な問題が起きているようです。
我慢ということはストレスになり、ストレスは身体に色々な影響を及ぼします。
仏教ではこの我慢ということを、自分を変わることない不変の存在であると思い込み、
そこに執着することで起こる心、また自分を高く見て他を軽視する思い上がりの心であるといいます。
とても厳しい言葉に聞こえますが、それは自分の価値観だけを信じて疑わず、
思い通りにならないことを誰かや何かのせいにして受け入れることができないところから、
我慢というものが生まれてくるということなのではないかと思います。
その我慢がある一定基準を超えると心に不調をきたす人も増えてしまうということです。
お釈迦様の時代の人々には、現代人の抱えるような心の病、精神的な病気というのは少なかったといいます。
それは自然とともに生きる生活の中で、様々なものを認めるということが、
日々の生活の中できていたからではないかということです。
どんなに抗っても思い通りにならないことがあるということを生活の中で認め、
そしてその中で人間がどう生きねばならなければならないかということを理解し、
受け入れながら生きてきたのだと思います。
しかし現代に生きる私たちの社会では、
科学や技術も進歩して多くのことが思い通りになるようになり、
生活のほとんどが、計画通りにコントロールできるようになりました。
移動手段も発達し、時間通りに思い通りの場所にいけるようになっただけでなく、
最近ではコンピューターやAIの進歩も目覚ましく、
さらに多くのことがコントロールできるようになるそうです。
いまや、天気すらもどうにかできるそうです。
更には、いままでどうにもすることができないとされていた四苦の問題、
生老病死の問題ですらコントロールしようと試みています。
そんな世界の中では、例えば、台風や地震においても、
まずは発生すらも人間の力でコントロールしようとしますし、
万が一にも被害がでないように様々な策を講じるわけです。
それでも被害がでたこと、起きてしまったときに、
それを人間の英知を超えた受け入れがたいけど受け入れなければならない現実を認めるというよりは、その現実をなんとかすることのできなかった人間の敗北であるという認識が先にきてしまうように思います。
病気も同じです、病気というのは戦って勝つものであるというのが現代の多くの人の考えの中にある価値観ではないかと思います。
死は敗北ですらあるようなニュアンスを感じることもあります。
お釈迦様の時代にはそのような価値観はなかったのかもしれません、
台風や地震、災害が来たら、いままで積み上げてきたものが一瞬にして消えてしまう、
また乾季になれば雨が降らずに作物は枯れてしまう、
そういう現実を、認めざるを得ない中で生活をしていました。
受け入れがたい現実だとしても、それを受け入れねば先に進めない中で、
認めるあるいはあきらめることで、その現実と共に生きていくことが、
あたりまえのようにできていたのかもしれません。
しかし私たち現代人は、受け入れる、認めるということがなかなかできません、
そして認められないだけでなく自分自身でコントロールできるはずだということを信じて疑わないのです。
その結果そこに生じる様々な処理のできないこと、今回のコロナウイルスもそうです、
人知ではすぐに対応できないことが起きると、それを受け入れられない、認めることができないところに、我慢が生まれ、ストレスが生まれ心に不調をきたす人が増えてしまうのではないかと思います。
仏教では物事は必ず変化していくこと、そして苦しみとは、思い通りにならないものを思い通りにしようとするところから生まれるといいます。
目の前の現実を、ただ受け入れるというのはとても厳しいことです。
しかしながら、いま私たちには、つねに変化していく目の前の現実をどう受け止めるか、
そんな仏教の知恵を知ることで、手放すことができる苦しみもあるかもしれません。
まだまだ多くの我慢を強いられる生活の中で「変化」ということについて考えるきっかけを仏法の中にいただけたらと思います。
副住職
遠藤正樹
副住職さま、
「変化の中で」拝読させていただきありがとうございました。今までずっとこれでやってこれたの慣習法、それは常識でしょうの自然法、やったらダメの成文法。そのどれもがあてはまりそうも無い自粛です。人も組織もそれぞれで自粛の難度もさまざまでしょうか。ただ悪いこともずるいこともやって来た私の履歴書ですから哲学としての仏教に沈思黙考する時間を頂戴できたと思っております。ただ動くの大好きの子供はそうは行きません。子供の自殺も増えたとのことで胸が痛みます。副住職におかれては心身ともに健全なこれから世代の育成に向け引続き工夫されチャレンジされていかれるものと頼もしく感じております。
遠藤 正樹
副住職
コメントありがとうございます。
コロナ禍において、様々な場面で、心身共にいろいろなところに影響がでていること感じます。大人たちはもちろん、子どもたちにもその影響は大きいようです。
幼少期の大事な時期に、1日1日を少しでもたのしく笑って過ごせるよう、微力ながら努めてまいりたいと思います。
遠藤様もどうかお身体にお気を付けください。