寂円寺徒然日記
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諦める


コロナウイルスの蔓延も一進一退、落ち着いてきたかと思えばまた感染が広がり、
蔓延防止等重点措置が施行され、
期間もまた延長をされました。

まだまだ寒い日が続いていますが、時折見せる日差しの中に、
少し春の兆しを感じることができる日もでてきたように思います。
春を待ち遠しくも、まだまだ世の中には、
いつ抜けるかわからない暗いトンネルの中にいるような
そんな閉塞感のようなものも蔓延しているように思います。

自分自身もまた、中止や延期を余儀なくされる行事の中で、
子どもたちの残念そうな顔や、
「しかたがないね」と諦めることに慣れてしまったような姿をみると、
とても胸がしめつめられるような思いがします。

大人にとっての1年2年とは比べ物にならないほど、
大切な価値を持つ、子どもたちの時間がこのように過ぎていってしまうことに、
1日も早く、いままであったあたりまえの日常が戻ってきてほしいと願うばかりです。

あたりまえの日常、
それは友達と食事をすることであったり、
家族で出かけることであったり、
節目節目の行事を行うことや、
大切な人に逢いに行くことであったり、
この状況が落ち着いたら・・・なんてセリフをいわなくても済むようになる日がくること、
そんな日が待ち遠しいです。

お寺でも、修正会にはじまり、新年会、またお彼岸やお盆の合同法要が中止になりもう2年が過ぎてしまいました。
今年こそはと思いながらもなかなか元通りにならない日々にもどかしさを感じます。

一般的には「諦める」という言葉は、自分の想い通りにならないこと、
叶わなかったことへの思いを断ちきるという意味で使われるのが多いですが、

その語源になった「諦観」という言葉、
諦めるに観と書きますが、その言葉の意味は、物事を明らかにする、
またはつまびらかにするという意味になります。
「諦」という文字は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語で、
真実、真理、悟りを意味する言葉となります。

仏教では、諦めるとは自分の思い通りにならない思いを断ち切るというのではなく、
思い通りにならないことが本来の道理であり、
思い通りにならないことを生み出すものは、
思い通りにいくに決まっていると思い込んでいる
私の心が生み出しているのだという
真理を明らかにしていくことであると説くわけです。

しかしながら、そんな仏教の教えに触れつつ、その道理が分かったとしても、
どうしても二つ返事で心をすっと落ち着けることができない
そんな自分自身が浮き彫りになったときに、

あらためてまた、そんなわが身のそのままを、
そのままに救おうと願われたという、

仏の願いというものの心強さを感じるような気がします。

コロナの日々の中で、思い通りにならない現実を痛感し、
そこにこそある仏の願い、慈悲の心に気づかされる、
そう思えば、コロナもまた仏法へのご縁に気づかされる一つの機縁なのかもしれません。

しかしながら、私ははやくマスクを外して、いままであたりまえであった
ただの日常がとても待ち遠しいです。

副住職


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