寂円寺徒然日記
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お彼岸をむかえて。


暑さ寒さも彼岸までといいますが、ここのところ朝晩冷え込む日にちも増えてきました。
あっというまにもう10月です、
10月になるといよいよ年末に向けて、
今年ももうすぐ終わりだなというような気持ちになります。

コロナ禍とよばれる日々も、気づけばもう3年になり、
マスク生活は私たちにとってあたりまえの日常になりました。
そんな日々の中で、ふと気づくと、目には見えないこの時の流れというものに、
いつのまにか自分も飲み込まれているのだなという実感がわいてきます。

先日、長男と大学のオープンキャンパスにいってきました。

京都の町をまわっていて、ふとついこないだまで自分がここで学生生活をしていたような気持ちでいたのですが、
気づけば、今こうして自分の子どもが大学をみにきている
「ついこのあいだ」は遠い昔であることを実感しました。
私が大学を卒業する年に前住職が亡くなりましたので、
今年の12月で丸22年、23回忌を迎えることになります。
「あっというま」の22年だったように思います。

そんなことを考えていますと、
あらためて今まで自分の見ていた場所にいつのまにか自分が立っている、
そして同時にいま自分の立っている場所は、
いつかだれかの立つ場所になる。
そんな気持ちがこみ上げてきます。

お寺にお参りに来る皆様とお話をしていても感じます。
昔、おじいさんおばあさんに付き添ってきていた人が、
おじいさんおばあさんになり、
手を引かれてきていた子供たちは、
もうお父さんやお母さんになっています。

あたりまえのことですが、人の営みというものは、
こうして刻々と変化していくものだということを、
実感として感じる機会が増えたように思います。

いままでそこにあったあたりまえの風景や、
日常とかそういうものは、常に変化していくわけです。
この変化ということについてはまさにお釈迦様の説かれた仏教の教えの根っこにある部分です。

仏教の根本的な理念として三法印というものがあります。

「諸行無常(しょぎょうむじょういん)」
「諸法無我(しょほうむがいん)」
「涅槃寂静(ねはんじゃくじょういん)」

の3つの法です。

■諸行無常:もろもろの行いは常につづくものではない。
■諸法無我:物事の全ては「因縁」によって生じる。
■涅槃寂静:煩悩を消し、真理を悟ることこそ、なにごとにも動じない安らぎを得る。

 つまりは「物事は常に変わり続け、すべて因縁によって生じるということを悟り、煩悩を消すことで安らぎの境地に立つ」これが仏教の根っこにある理念です。

コロナ禍という世界に生きるようになり、あらためてこの変化ということ、あたりまえの日常も、様々な因縁が変わることによって、
あっというまにあたりまえでなくなってしまうことも、実感として感じることが多くなったように思います。

現実の問題として、この変化、時間の流れというものを意識してみますと、
頭ではわかったような気にはなるのですが、
この大きな流れに飲み込まれて変化していくことということに、
なにか漠然とこわさのようなものがわいてくることがあります。

変化の中には、身近な人との別れもまた含まれますし、
そのような機会にふれることも多くなってきます。

そうするとやはり、自分自身についても考えざるを得ない、
そして、自分自身の中にあるそういう現実どう向き合うか考えさせられるわけです。

お釈迦差はこの変化の中で生きる私たちの姿を、
「独生独死独去独来」という言葉であらわされます。
(独り生まれ、独り死す、独り来たりて 独り去る)
大無量寿経の中のお釈迦様の言葉です。

言葉だけを読みますと、とても孤独で寂しいような響きに聞こえますが、実はそうではなく、一つの事実として生きている間にできたご縁や身につけたこと、
さまざまなものは、いつか手放さなければならない時がくる、この肉体ですら手放さなければならないという現実は、
いうなれば、孤独であることは寂しいことではなく、それが本来のあたりまえの姿である、
変化の中で生きていくということはそういうことなのだと、
お釈迦様は私たち人間の姿を明らかにされているわけです。

 そしてその問題とどう向き合いそこから生じる様々な問題をどう解決していくのか、
その方法をインド各地で説かれたわけです。 

自分自身の中にある問題に向きあうということは、とても大きなそして重い課題であるかのように感じられますが、

私たちの浄土真宗ではどう考えるかといいますと、
その問題を解決するために、
もちろん自分自身が向き合っていかなければならないのですが、
いうなればそこを伴奏してくれる存在がいますよというわけです。
その存在というのが阿弥陀如来です。

親鸞聖人は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」という言葉を残されました。

「阿弥陀如来が、五劫という長い時間をかけてご思案になって発起してくださった「衆生を救いたい」というご本願をよくよく考えてみると、今私が悩んでる悩みに向けてただひとえに私親鸞一人を救わんがための願いであったのだ。そうであれば、数え切れないほど多くの罪業をそなえた私のことを助けずにはおれないと思い立たれた阿弥陀如来のご本願の、どんなにかたじけないことであろうか」

「ひとえに親鸞一人がためなりけり」この言葉にはとてもインパクトがあります、阿弥陀仏の願いというのは、まさにいまここにいる私自身に向けられたものであるのだという深い自覚の中から生まれてくる言葉ではないかと思います。親鸞聖人の問題というものも、まさに老病死を生きる人間の根源的な問題であって、それはすなわち私たち自身も同じであるということです。

 私たちが有限なる命をもって生まれ、様々な関わりの中で生きる、その現実そのものを四苦であるという仏教の教えの中で、まさにその渦中に私がいるのだという自覚、この自覚ということがなによりも大切なことなのだと思います。

親鸞一人の自覚というものは、「正信偈」の中にもあらわされています。

「大悲無倦常照我」

仏様の大慈悲心は、「常照我」と著されています。
いま「常に私を照らしています」
その私という深い自覚と、告白こそが、
つまりは、どこかの誰かの確信ではなく、いままさにここにある、手ごたえのある確信こそが、
生きとし生けるものすべてが阿弥陀の慈悲の光明に包まれていることへの確信につながっているのではないかと思います。 

その確信こそが、このまさに直面する自分自身の問題について、自分自身でそれに向き合い、解決することが難しい私たちの為に、
長い時間考え抜かれ本願を建てられたれた阿弥陀仏の慈悲に対する、感謝の想いへとつながってくるのではないかと思います。 

あらためてその言葉を味わうに、人間そのものが根本的に抱える問題に対して、摂取不捨、決して一人にはしないぞという、
本願に頼もしさを感じ少し気持ちが楽になるような気がします。

「親鸞一人」この言葉の根本にあるのは、問題を他人ごとにしないということです。
自分自身のまさにここにある問題として、受け止めているということなのだと思います。

私たちは自分自身の問題ですら、ふと見えなくなってしまう、
まさに時間の流れのように、自分の周りだけが速いスピードで時間が流れているわけではなく、
自分自身も同じだけ時間が流れていることをふと忘れてします。

自分自身の姿すらも見えないことを無明という言葉で表しますが、
その無明の闇を晴らし、その自分自身のありのままの現実の姿を気づかせてくれるものが仏教の教えです。
そしてそのありのままの姿にこそ、願いをかけられていていた仏の願い、
「本願」に気づかされていくことが私たち真宗門徒のなによりも大切な姿になるのではないかと思います。

私たちはその願いに気づき、本願に気づかせていただくために仏法に、
そして真宗の教えに触れる機会を大切にしていくわけですが、これを「聴聞」といいます。

お彼岸もお盆も、この聴聞を大切にする時間です。
生前の亡き方を思い、お墓参りをすると同時に、
聴聞する機会を残してくださった亡きかたに感謝をし教えをきき、
そしてわが身を問う姿勢をわすれないように過ごしていければと思います。

副住職

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