寂円寺徒然日記
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ある日の法話~お念仏について~

ある日の法話~お念仏について~

浄土真宗ではお念仏を一番大切にするわけですけれども、南無阿弥陀仏、そのお念仏ということについて少しお話をさせていただきたいとおもいます。

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」、皆さまも一度は口にされたことがあるでしょう。では、どのようなときにお念仏を称えるのでしょうか。

例えば、
お墓の前で「どうか家族を見守ってください、ナムアミダブツ」「ご先祖様、お願いしますね」と手を合わせるとき、あるいは「大学に合格しますように」「お腹の痛みが治りますように」「家族が平和に過ごせますように」「お小遣いが増えますように」といった願いを込めるとき。

私自身、つらいときについ「なまんだぶ、なまんだぶ」と口にしてしまうこともあります。かつてアニサキスに苦しんだときもそうでした。このように、お念仏に願いを込めることは、誰しも経験のあることではないでしょうか。

願うことは決して悪いことではありません。むしろ、人は何かを願わずには生きられない存在であり、それは自然なことです。しかし、これがお念仏の本当の意味であるかといえば、少し異なります。そのことを踏まえ、考えてみたいと思います。

お念仏について思い出すのが、医師でありながら親鸞聖人の教えに深く帰依し、数多くの著作や法話を通じて人々を導かれた米沢英雄氏の言葉です。米沢氏は「念仏者」とは、ただお念仏を称える人ではなく、お念仏に出遇い、お念仏とともに生きる人であると説きました。
米沢氏は次のように述べています。

「お念仏は請求書ではなく、領収書です。」

すなわち、お念仏には「請求書としてのお念仏」と「領収書としてのお念仏」があり、本来は請求ではなく領収であるというのです。

先ほどのように「大学に合格しますように」「病気が治りますように」と祈るのは、請求書としてのお念仏の姿といえるでしょう。これに対して、領収書のお念仏とはどういうことか。領収書はすでに受け取ったものに対して発行される証です。すなわち「すでにいただいている」という事実を証明するのがお念仏である、というのです。

では、私たちは今、すでに何をいただいているのでしょうか。この「今、いただいているもの」が何かを見つめることこそ、領収書のお念仏を理解する鍵となります。

ここでひとつ、例を挙げたいと思います。メジャーリーグで活躍するダルビッシュ有選手のエピソードです。

彼は20歳の頃、練習にまじめに取り組まずそれでも結果が出ている自分に天狗になっていた時期があるそうです、しかしある時、東京ドームでの試合でリードを守れず追いつかれてしまった試合をきっかけに、自らの未来を想像したそうです、しっかりとトレーニングもせずこのまま適当にピッチャーを続けてそのうちに肩を壊して、試合にもでれないようになり、40歳でホームレスとなり、生活に困窮する自分が思い描かれたそうです。

そのとき神のような存在が現れ、「20歳の頃に戻してやろう。ただしやるべきことをやらなければ、この未来に戻すぞ」と告げたといいます。誰もが「戻りたい」と答えるに違いありません。彼はそこで今もう一度チャンスをもらっていただいた時間が今なんだと思い、「今こそ本気でやるしかない」と心を定めたそうです。

未来を想像することによって、彼は自分の「今」を強く意識し、その立ち位置を確認し、未来を切り開いていきました。

私たちにとって「今を見つめる」ことは大切だとわかっていても、実際には容易ではありません。なぜなら私たちの心は、過去の栄光にすがってしまったり、まだきていない未来にとらわれてしまうことがよくあります。

お釈迦さまも『中部経典』の「一夜賢者の偈」において、次のように示されました。

過去は追うな、未来を願うな。
過去はすでに捨てられ、未来はまだ来ない。
だから現在をありのままに観察し、動揺せず、よく理解して実践せよ。

この教えは、私たちが苦しみを減らして生きるための道を端的に示す言葉です。

けれども現実には、過去の失敗や後悔から抜け出せず、あるいは未来への漠然とした不安に押しつぶされそうになりながら日々を過ごすことが多いのではないでしょうか。過去の栄光にとらわれ、未来も思い通りにいくと信じて疑わない場合もあるかもしれません。

大切なのは「今の自分」をしっかりと見つめることです。今という時間は、数えきれないご縁によって成り立つ奇跡のような時間であり、未来へとつながる出発点です。この「今」を知ることこそ、領収書のお念仏に結びつくのです。

想像してみてください。10年後、20年後の自分が病に伏し、病室の窓から同じ景色を眺めるしかない日々を送っているとしたら――もう一度元気に歩きたい、好きなものをお腹いっぱい食べたい、世話になった人にお礼を言いたいと願うかもしれません。そのとき神仏が現れ、「10年、20年だけ時を戻してあげよう」と告げたとしたら。その「戻った時」が、まさに今日の朝であり、いま、こうしてお寺に集う時間です。

そう考えると、当たり前に過ぎていく今という時間が、実は多くのものに満たされたかけがえのない時間であると気づかされます。そのとき自然と口から出る言葉こそ「南無阿弥陀仏」であり、これが「領収書のお念仏」といえるでしょう。

親鸞聖人もまた、晩年に『顕浄土真実教行証文類』の後序で次のように述べられました。

慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。

今立っているこの場所で、安心して生きていけることを見出されたよろこびが、ここに表されています。阿弥陀仏の本願は「仏地」「法海」として、大地や大海のように広大な願いで私たちを包んでくださっているのです。

私たちはつい「足りない」「もっと欲しい」と思いがちですが、実はすでに願われ、支えられている存在です。その事実に気づいたとき、「南無阿弥陀仏」という言葉が自然とあふれてきます。

これこそが「ない」から「ある」への転換であり、今この瞬間に仏の願いが届いている。その光に包まれていることを思い、心から「南無阿弥陀仏」と称える。そのとき私たちは、すでにいただいていたものに気づき、請求ではなく領収としてのお念仏に出遇うのです。

この出遭いがなによりも真宗門徒にとって大切な出遭いであり、お寺はその出遭いの場となっていかなければならいのではないかと思います。

副住職

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