先日岐阜のお寺に布教にいく機会をいただきました。
報恩講の法要の後、「報恩講とはなにか」という話、そして「お念仏とは何か?」というテーマで、米沢英雄さんの「念仏は請求書ではなく領収書である」という言葉からお念仏の心に触れ、浄土真宗の悪人正機とはどういうものかというような内容で、3座のお話をさせていただきました。
「お念仏とはなにか?」というのは浄土真宗の門徒にとっては、永遠のテーマかもしれません、一言でお念仏はこういうものである!と1+1=2となるように、明快に示すことができればいいいですが、そういうわけにはいきません。
それでも、多くの人の言葉に触れる中で、おぼろげながら、お念仏の輪郭というものが見えてきます、そしてそのおぼろげな輪郭が、聴聞をしていくことで少しづつピントがあうように見えてくるのかもしれません。
なぜ私たちが聴聞していくことに、お念仏の姿を追い続けることに意味があるのかといえば、その理由は、私たちは意識的にも無意識的にもその答えを常に渇望しているからなのではないかと思います。
普段は答えを求めている自分自身ですら忘れてしまいがちですが、その根源的な「問い」はことあるごとに顔を出してきます、普段は鳴りを潜めていてもふと唐突に現れるのです。
人の世はその繰り返しかもしれません。
親鸞聖人は晩年、お念仏に出遭われた喜びを、
慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の衿哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
まことによろこばしいことである。心を本願の大地にうちたて、思いを不可思議の大海に流す。深く如来の慈悲のおこころを知り、まことに師の厚いご恩を仰ぐ。よろこびの思いはいよいよ増し、敬いの思いはますます深まっていく。
とのべられました。
決して揺るがない大地に支えられ、なにもかもを受け止めてくれる大海のような願いにつつまれていることを、実感されているようなとても心強いお言葉に、不安定で、不確かで、曖昧な私たちの生きている娑婆の世界にあって確かで揺るがないものに安心を得ることがどういうことなのかということを示してくださっているようです。
私たちが、聴聞を繰り返し、お念仏の輪郭を追い続けること、その理由がまさにこの言葉の中に集約されているように思います。
お寺という場所は、聴聞をする場であり、またお念仏の姿を聴き開いていく場所でもあると思います。
今年ももう残すところ2ケ月を切りましたが、一年の節目にお寺にお参りし、手を合わせる時間の大切さを感じていただけたら嬉しく思います。