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いよいよ本格的に暖かくなってきて春本番といった感じになってきました。先日上野を散歩してきました。不忍池の周りの桜も満開に近く、たくさんの人で賑わっていました。後から知ったのですがその日は20万人近くの人が上野公園に花見に来ていたそうです。
ほんとうに日本人というのは桜が好きなんだなぁとしみじみと感じます。そんな自分も桜が大好きです。桜という花は昔から日本を代表する花ですが。なんで日本人というのはこんなに桜が好きなんでしょうか。
桜の花は満開を迎えたときももちろんですが、桜は散り際こそが美しいとよくいいます。桜の美しさというのはその花の美しさだけでなく、花盛りは短く、そして可憐に潔く散っていくという桜の姿にもあるような気がします。日本人は昔からその姿に自らの人生を重ね合わせたり、またその無常観を無意識のうちに重ね合わせているような気がします。
桜はあっというまに満開になって、そしてあっという間に散っていきます。そして桜は散るからこそ美しい。その瞬間をみんな目に焼き付けようとたくさんの人たちが花見に出かけるわけです。しかしそう考えますと、たしかにこれは私たちの人生でも同じなのかもしれません。命の時間が数週間なのか数十年なのかの違いだけであって、いつか散りゆくことは人間も桜もおんなじです。散るからこそ、いまこの瞬間の輝きが増すというのもおんなじような気がします。
散るからこそ美しいというのであれば、いま自分の命がここにあるのもいつか散るものであって、今日かも知れぬ明日かも知れぬ命であるわけです。桜が散ることは当り前のようにわかっているのに、自分の命が散ることはつい忘れてしまいがちなのが人間です。
わが身の無常観をしっかりと自分の中に感じ自覚することではじめていまこの瞬間の重さ、いまのこの瞬間「いまここ」に感謝の気持ちが湧いてくる。その心を報恩感謝というのかもしれません。「いまここ」にあるすべてに感謝の気持ちが心のそこから湧いてきたときに口を衝いて出るのが「南無阿弥陀仏」なのかもしれません。
西行法師は「願わくば 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」という句を詠みました。この時期に満開の桜の下を歩いているとその気持ちがわかるような気がします。
遠藤 正樹
副住職さま
4月6日掲載文拝見させて頂きました。
春は気分が和みますね。
美味しいビールと豆腐があればそれで十分幸せです。死については、人間皆死ねるわけですから、順番がくれば自分も普通に死ねると思っており、結構吹っ切れた気分でおります。では生きるとは何かですが、私の場合は、人生の意義を余り深く考えないことにしております。考え出すとそれこそきりが無く、人生途端に難しくなってしまう気がします。誤解を恐れずに言えば、人生にこれと言った意義は無く、誰もちょぼちょぼで同じであり、又特段人生の差別化を目指す必要も無く、ただ今の生を楽しみ普通に死んでいけば十分生きるに足る人生では無いかと思っております。
ですから、無くなった人に対してはそのうちそちらに参りますから、暫し待ってていて下さいと。これからの人には余り人生を深く考え過ぎず、好きなことをやっていけば宜しいのではと。
遠藤 正樹 拝
副住職
>人生にこれと言った意義は無く、誰もちょぼちょぼで同じであり、又特段人生の差別化を目指す必要も無く、ただ今の生を楽しみ普通に死んでいけば十分生きるに足る人生では無いかと思っております。
全く同感です。生きることに意味がないというとすこし乱暴なように聞こえますが、実際は自分の思う意味というのは自分自身が生み出したものであり。意味があるといえばある、ないといえばない。またその意味はいつまた変わるかもしれないようなものであるかもしれない。それをまさに一如とか空とかいう表現をするのではないかと思います。
いま目の前にある現実に手をあわせてお念仏をする。お念仏にはいまのこの瞬間にありがとう。という意味もあるのではないかと思います。
結局人生はなるようになる。なるようにしかならないのかもしれないですね。
charmant_721
>鼻の下にて は早急に訂正されたほうが宜しいかと思います・・・・。ひょっとしてユーモア?又は、はなはだしい間違い。
副住職
ありがとうございます!修正しました。