寂円寺徒然日記
鶯の声。


寒い冬もまもなく終わり、もう、すぐそこまで春がきているようです。春というものは実際は目に見ることはできませんが、膨らんだつぼみや、冬ごもりをしていた生き物が土の中からでてくるのをみると春の訪れを感じることができます。


暑さ寒さも彼岸までといいますが、私は寒い冬が苦手ですので、この時期は1日も早く暖かくなってほしいと願っているのですが、先日、春の訪れを告げるあの鳥の声が聞こえてきました。


「ほーほけきょ」


その声に、なにか心がふわっとほぐれるような気がするわけです。
なんとも風情があるといいますか。

今日はお彼岸ですので、その鶯の鳴き声ということにかけまして、お念仏の心ということでお話をしたいとおもいます。


浄土真宗というのは、一言でいえば南無阿弥陀仏の宗派ということになりますが、その中で浄土真宗では「信心」というものを大切にします。

「信心」

信心といいますと、読んで字のごとく信じる心ということになりますが、
はなにを信じるのかといえば、それは仏の願いということになります。では仏の願いとはなにかといいますと、みな救う、必ず浄土に救うという願いを指すわけです。


私たちはその願いを信じるわけですが、
しかしこの信じるというのは、簡単なようで実はとても難しい、
そもそも人間は信じるということがあまり得意ではないともいえるかもしれません。

信じるといいますと、自分が神様を信じる仏様を信じる。
自分の方から意識的に発して信じるものであるというのが一般的な解釈ではないかと思います。

しかし浄土真宗の信心は少し違います。
信心は自分から発するものではなく「いただく」ものであるというわけです。


自分から発信している信じるということでは、多くの場合、真面目な人であればあるほど、
阿弥陀さまが浄土に往生できるというので、それを信じてみよう。
しかし長いことそれを信じてお念仏をしてはいるものの、
気持ちが晴れ晴れするわけでもないし、
浄土に行くといわれてもピンとこない、
そりゃ信心がたりないからだ、もっと信じなければといわれればそうかもしれないし、
ではこれ以上信じろと言われてもどうしたらいいのだろうか・・・

ということになってしまうのではないでしょうか。

浄土真宗では信心のいただき方といいますと、
阿弥陀さまの呼ぶ声を聞こえたままに、そのまま自分の中に聞くことで、お浄土に生まれることが確かになることなのだといいます。そこに疑心わくことなく安心することが、「ご信心」のいただき方です。

「聞こえたまんま」というのは、他でもなく「お念仏」が聞こえたまんまということです。南無阿弥陀佛のお念仏はもちろん私たちの口で声に出して称えるものですが、同時に阿弥陀さまの私を喚ぶ声です。「必ず救うぞ」という阿弥陀さまの声なのですから、その声をしっかり聞かせてもらわないといけません。

と、ある先生がおっしゃっていました。
しかしどうにもこの話だけでは自分の中ではっきりと確信をもって「わかる」と言い切れない部分があります。

そんな中で、「ほーほけきょ」という声が聞こえてきました。
鶯の鳴き声です。

私はふと、この声もまた一つのお念仏の形ではないかと感じました。
「ほーほけきょ」あの声はなんなんだろうか、疑問に思った時に、鳥に詳しい人にききますと、

あの鳴き声は、縄張り内を見張っているオスの声で、「ホーホケキョ」が他の鳥に対する縄張り宣言であり、巣にエサを運ぶメスに対する「縄張り内に危険なし」の合図でもある。また、その声がメスにとっては魅力となるために、オスはその声が遠くまで通るように鳴くことを練習しだんだんうまくなる。また、「ケキョケキョケキョ」が侵入した者や外敵への威嚇であるとされており、これを合図に、メスは自身の安全のためと、外敵に巣の位置を知られないようにするためにエサの運搬を中断して身をひそめること。


なんていう情報を教えてもらえます。
なるほどあの鳴き声はそういうことなんだなと頭で納得できるかもしれません。

お念仏も同じで、南無阿弥陀仏とはなんなんだろうか。
例えばそれを参考文献などを引いたり、もしくはウィキペディアで調べますと、、


「南無」はナモー(namo)の音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマス(namas)の連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依(śaraṇagamana)を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。

「阿弥陀」は、その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明, amitābha)」と「アミターユス(無量の寿命, amitāyus)」に共通するアミタ(無量[注釈 2]、amita-)のみを音写したもの。

すなわち「南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。

ということを教えてくれるかもしれません。


なるほど、お念仏とはそういうものか。
とすぐに納得はできないかもしれませんが理解は深まるのかもしれません。

例えば、他にもこんな聞き方もできるかもしれません。


「ほーほけきょ」あの声は何だろうと思ったものの、 とくに興味も関心もなければ、
なんかよくわからないけど、鳥が鳴いてるな、どんな鳥かしらんけど、たぶん鶯という鳥だろうな。

かぁかぁと、カラスがないてるのとかわらん。
ちゅんちゅんと雀が鳴いてるのとかわらん。


気にもとめなければただの鳥の声、それ以上でもそれ以下でもないという聞き方もできるわけです

お念仏も、同じように聞いてみますと、

南無阿弥陀仏、なんかよくわからんけど仏教の言葉らしいな、浄土に行ける呪文のようなものなのかもな、なんかクワバラクワバラみたいなものかな。

という聞き方もできるわけです。

しかし、お念仏の聞き方というのはそのどちらとも違うと思います。


「ほーほけきょ」と聞こえた時に、そこになにをきくのか。聞きようによっては例にあげたように、いろいろな聞き方、受け止め方ができるわけですが、


先ほど冒頭に、ほーほけきょという声をきくと心がほぐれる気持ちがしますといいましたが、そこに共感していただける方もたくさんいるのではないかと思います。中には、春の日差しの中、ふと桜の枝にとまる鶯の情景が浮かぶような方もいるかもしれない。

いろいろな聞き方ができる中で、その違いは何だろうか考えてみますと、

そこにある違いの一つに、鶯の声をきく自分自身の中に、寒い冬のきびしさから、あたたかい春を願う心があるかどうかということがいえるかもしれません。

心の中に意識的にも、または無意識的にも「春になってほしい!」その思いが流れていて初めて「ほーほけきょ」その声が、ただの音ではなく春の訪れつげる声となり、桜の花までの情景に結びつくのではないでしょうか。


お念仏も同じではないかと思います。

南無阿弥陀仏、その声を聞くときに、自分自身の中に本当に救われたいと願う心があるかどうか、その心の奥底にその思いが、お念仏の声を、ただの音ではなく、阿弥陀仏の願いの声であることに気づかかせてくれる、そしてそこにそこに浄土の姿が浮かんでくるようなものではないかと思います。

救われるしかないわが身に気づかされること、そしてそのわが身にもうすでに仏の願いがかけられていることに気づかされることがすなわち「信心」の核になるものではないかと思います。

救われたい!という声を発していると同時に、無量の時間の中で考え抜いた阿弥陀様の救うぞが聞こえてくるわけです。

では何から救われたいのか、それは生老病死という、この四苦の現実の中に今この瞬間私たちが生きているという現実です。仏教ではその苦しみに気づかずに生きていることを無明といいます。その無明の闇を晴らして、その私たちに浄土の願いをかけられている本願に気づく。それこそがお念仏の心になるわけです。

鶯がどこかから直接春を運んでくるのでもない。
南無阿弥陀仏が直接苦しみを消し去ってくれるわけではない。

しかし、自分の内なる声に気づいたときにはじめて、それは春の訪れを告げる声に、そして浄土の救いというものにつながっていくのではないかと思います。

その内なる声に気づかせていただくために、人間とはどういう存在なのか、なぜ浄土に救われなければならないのか。自らに問いをもつということはなによりも大切であると思います。

わが身とは何か。
自己とは何ぞや。

多くの人たちが考え抜いてきました。
その問いが、私たちの中でお念仏と形をかえて、仏さまからの答えとなってとどくわけです。

浄土真宗では、そのお念仏の世界を自分自身の中で味わい、その味わいを共に語り合い、共有し、共に歩く仲間を「御同行」「御同朋」といいます。

お寺という場所は、仏法に出遇い、その喜びをともに歩む御同行、御同朋に出会う場所です。このお彼岸にまた何かのきっかけになれればと願います。

副住職

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