寂円寺徒然日記
いわんや悪人をや。

子どもを連れて外で食事をしたり、電車に乗ったりすることが多くなると、自分の子どもがぐずっていたり。大きな声で泣いていたりすると、どうにもいたたまれない気持ちになったり、どうしょうもなく申し訳ないような気持ちになることがあります。

そんな経験をして、自分の中で1つ気付かされたことがあります。

自分に子どもがいないときは、周りで子どもが大騒ぎをしていたり、大きな声で泣いていたりしたら、心のどこかではなんだようるさいなぁとか、すこし静かにしてほしいなぁと感じていたことがあったと思います。でもいま自分がそういう経験をしてみると、ああお母さんも大変だな、お父さんも困ってるんだろうなとか。そのいたたまれなさや申し訳ないような気持ちをくみ取ることができるようになったと思います。

人間は自分の立場にならないとわからないことがあります。その時になって初めて気付かされるということがたくさんあるんだと思います。だからきっと今の自分もこれから生きていく中でたくさん、今は気づいていないことに気づかされることもあると思うし、同時にもしかしたら一生気づけないこともあるかもしれないけど、そういうことがあるということに気づけたということで、少しいろいろなことに寛容になれるような気がします。

よく人様に迷惑をかけないようにしなさい。という言葉をよく聞きます。

でも子どもが泣いているときもそうだし、いろいろな場面に出くわすたびに、人は生きている以上誰にも迷惑をかけずに生きていくというのは難しいと感じます。むしろそれは無理なんじゃないかと思います。

好き好んで迷惑をかける必要はないけれど、いくら気をつけていても、誰かに迷惑をかけてしまうのが人間で、もしかすると自分は気づいていないところで誰かに迷惑をかけているかもしれない。

「悪人正機」というのは、人間は罪をつくるまいと固く心に誓ってももしかしたら罪を犯してしまうかもしれない、いろんな縁があって、自分の思い通りに正しく生きようと思っても生きられないのが人間であるし、気づかない間にどこかでだれかにとっては迷惑なことをしてしまっているかもしれないのが人間であると、つまりは自分は善人で、言い換えれば誰にも迷惑をかけていないと思い込んでいる人ほどそれは大きな勘違いであるということに気づいていないということではないでしょうか。

自分はもしかしたら罪を犯してしまう可能性もあるし、どこかでだれかに迷惑をかけているかもしれないし、1人で生きているかのように感じても、気づけばたくさんの命があってその上に初めて生かされているということに気づかせていただく、そこに深く気づいて、心の底から湧いてくる感情が報恩感謝であり、南無阿弥陀仏なんではないでしょうか。

人に迷惑をかけるのはやめなさい。というのではなく、人の迷惑を許せる人になりなさい。というほうが仏教的ですごく真宗的なような気がします。

自分の子どもにはそういって育ててあげたいと最近思うようになりました。

 

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