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お彼岸が開けました。
今年は大型連休の中のお彼岸ということで、お参りに来る人の数が、予想できずにいたのですが、本当にたくさんの方にお参りいただき、ありがたいことだとしみじみと感じました。
普段はお参りに来られない、おじいさんやおばあさんや、そのお孫さんや、息子さんなど、お休みだったことで、ひと家族の人数がいつもよりも多かったように感じます。
そうやっておじいちゃんがいて、息子さんがいて、お孫さんがいて、そうやって世代を超えてお寺に足を運んでくださるという光景には、感慨深いものがあります。
最近では「直葬」という特集などが、あちらこちらでとりあげられています。また少し前に、またお寺やお坊さんの必要性は本当にあるか?なんて記事をよみ、切ないことだなぁ。と感じていたのですが、お彼岸が終わり、境内のお墓にはほとんどお花が上がっていて、寂光廟には、花立てにはいりきらないほどのお花があがり、また、いろんな方が足を止めてお話をしてくださることに、とてもありがたいことだなと感じます。
最近ここでいろいろ思ったことを書いていることもあり、気軽にお声をかけていただく機会が増えて、とてもうれしく思います。やはり真宗では、顔を見合せて、話をするということがとても大切だと思います。
お寺に足をはこばれた際にはぜひおきがるにお声をかけていただけたらと思います。お茶でも飲みながらお話しできたらいいなと思います。
遠藤 正樹
26日掲載拝読させて頂きました。こうしてお寺さまに集う想いは人それぞれでしょうが、見ず知らずの人々と場と時間を共有していくうちに、自然と仲間意識やら、同胞感やらが自分のなかに芽生えてくるのを感じます。様々な人生の局面で様々に悩んでいる人々が自分ひとりだけでは無いのだなと安心し、そして又それぞれの人生へ散らばって行くのだと思います。生老病死のなかのある時点からこの様なコミュニティを持っていられること、皆同じかも知れないと確認できる場にご縁を頂戴できたことはとても有り難いなとつくづく感があります。私にとってお寺さまは彼岸と娑婆の接点です。日常では得られないおごそかな気配を感じ、謙虚な気持ちに戻り、たとえ少しの間でも人間としての優しさを取り戻し、そして気分を新に日常のあれやこれやに再度復帰して行くことができます。ですから言及された直葬はひとつの考え方かも知れませんが、人生していく上での貴重な機会をみすみす逃してしまうのですから、とてももったいない話しではないかなと感じております。私個人としてはお寺さまを持てて本当に良かったと思いますし、これからの人にもお勧めしたいと断言できます。 遠藤 拝
副住職
コメントありがとうございます。>お寺さまは彼岸と娑婆の接点です。というお言葉とてうれしく感じます。真宗の場合、お寺があんまり格式高く敷居の高いのはよくないのかもしれませんが、しかし、日常とは切り離されて、聞法をする場所ということでは、お寺に来て、自分を省みて、日常に戻る。ということができるということは、大変意義のあることだと感じます。
お寺に足を運びやすく、だれでも立ち寄れるようなお寺をつくっていきたいと思っています。