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五木寛之さんの「親鸞」という本の中に、
「そのこころは心ではなく情なのだ。浄土は情土なのだ、唯識で心はとけるが、情はときあかすことはできぬ」
という言葉がありました。
それを読んで感じたことですが、まず、浄土というところが、どういう世界なのかということは、阿弥陀経の中に、事細かに記されています。
抜粋ですが、例えば、
極楽国土には、七重の欄楯(欄干のような石垣)、七重の羅網(とりあみ)、七重の行樹(並木)があって、みな、これ四宝(金・銀・青玉=瑠璃・水晶)であまねく取り囲むとか。
極楽国土には、七宝(金・銀・青玉=瑠璃・水晶・赤真珠・碼碯・琥珀)の池がある。八功徳(澄浄・清冷・甘美・軽軟・潤沢・安和・飢渇を除く・健康増進)の水が、その中に充満している。池の底には純ら黄金の砂が布かれているとか。
天の音楽をかなで、黄金が地をなしている。昼夜六時(一日を昼夜に二分、それぞれをまた三分して、六時となる)に、曼陀羅華を雨降らす。その国の民衆は、常に清々しい朝に、おのおの花を盛る器をつかって、もろもろの妙華を盛り、他方の十万億の仏を供養し、昼の休息をもって、本国に還到し、ご飯をたべ、座禅の眠気を覚ますためゆきつもどりつする。
など一部抜粋ですが、具体的に極楽の様子が説かれているわけです。
いままで、自分の中では、極楽というところは、いいところなんだろうなぁ。だからお念仏を唱えることで、極楽にいくことができる。と考えていたことがあります。どうせ死んだあとにいくところがあるならいいところの方がいいなぁと。じゃあ、なまんだぶなまんだぶ。と。
でも思うに、それじゃお念仏は、極楽に行くための一種の方法にしかすぎないわけで、経典を読んで、頭で浄土を思い描いている限り、お念仏は方法論に陥りやすくて、それじゃ、本末転倒になってしまうのかもしれないと感じることがあります。
正直言えば、もしお念仏が方法論だとしたら、いまの現代において、お念仏したら極楽にいけますよ!といって極楽にいくことを心から望んでお念仏を唱えられる人はどれだけいるでしょうか、自分もそうですが、極楽なんて本当にあるんだろうか、そもそもお念仏したらそこにいける根拠なんてあるんだろうか、とか、阿弥陀仏とかってそもそもなんなんだ。と考えてしまうのが普通じゃないかと思います。
しかし真宗において大切な心は、その疑いの中にあるのかもしれないと思うわけです、その疑いというのは、頭のどこかでは、そういうものがあればいい。とか、すべてをすくってくれる存在がいてくれればありがたいけど・・・もしかしたらそうだったら・・・と気持ちも含まれているように感じるわけです。
法要や、通夜葬儀で、遺族の方とお話をする時に感じるのは、極楽の様子や、極楽がどこにあるかとか、そんなことや、もっといえば、自分が念仏をすればそこにいけるかどうか、ということはさておき、今、亡くなられた方が、極楽というところに行って仏様になっていると思えることに、安心することができるのかもしれないと思うわけです。
また、自分がどうしょうもなく苦しい時に、神頼みなんて言葉もありますが、そこに阿弥陀さんがいるからとか、もっといえば救ってくれる人がいるから、助けてくれ。というお願をするのではなく、そういう相手を通り越して、救ってくれるとか、救ってくれないとか、阿弥陀さんがいるとかいないとかに、関わらず、だれでもいいからなんとかしてほしいとか、思うことがあるわけです。
そう思った時に、冒頭の浄土は情土とはうまいことをいうなぁとおもったわけです。
大切な人がいいところへ行っていてほしい。とか、自分が苦しい時に、だれでもいいから何とかしてくれ!とか。そういう人間の根本的な心の中に、浄土というものの本当の姿があり、それを恋う気持ちをお念仏という形であらわすのかもしれないと思うわけです。
大事なのは浄土そのものなのではなくて、人が浄土を恋う気持ちによりそうことであって、救いを恋う気持ちによりそえなければ理屈ではない浄土というのはわからないのかもしれないと思うわけです。
また浄土を恋うときにそこにある。人間の本当の部分、なんで人間は極楽浄土を恋焦がれるのか、そしてそこには、浄土を恋わなければならない自分がいるという事実があるということに気づかされることが大切なのではないかと思います。
それを簡単に噛み砕いてみると、やはり真宗は山からおりた宗派なんだなぁとしみじみ感じるとともに、非僧非俗というのは、やはり簡単なようで難しいなと感じます。つい理屈や頭で、経典を理解してしようとしてしまいますが、それではわからないことがまだまだたくさんあるように感じます。
そして最後は目の前にいる人と、一緒に笑って一緒に泣きながら、その心にまっすぐによりそって生きていくことが大切なのではないかと感じるわけです。
副住職
遠藤 正樹
副住職さま
お念仏と浄土拝読させて頂きました。淡々とした語り口ですが本質はとてつも無くヘビーであり、なんとも言葉が出てきません。
ただ、信ずるものは救われる、ここは確かな処でしょうし、浄土を信じないものはそれはそれで万事やっていってくださいとなりませんか。ですが半信半疑が一番苦労する。よく分かりませんが、その様な感じがします。
近代はREASONINGに第一等の価値を置いて来ましたし、特に日本の戦後世代はいささか偏重した教育しか受ける機会がありませんでした。私も理屈抜きで確信に至ることは非常に辛い。然し、何によらず理屈が無力な世界を山ほど見聞きしてきましたから、どんなに人間が偉いか承知してはおりませんが、理屈はそんなに上等な代物とも思えません。真宗は半信半疑の煩悩を抱えるもののために山から降りて来られたと思います。
『目の前にいる人と、一緒に笑って一緒に泣きながら、その心にまっすぐによりそって生きていく』いいですね、とても。理屈抜きに。
遠藤 拝
副住職
>真宗は半信半疑の煩悩を抱えるもののために山から降りて来られた。というのはたしかにそうかもしれないですね。
山から下りたということを深く感ずるに、そこに真宗の原点があるように思います。しかしつい人間は山の上から下を見下ろしたくなるものなんですね・・・
遠藤 正樹
副住職さま
王楽師匠の芸風が一段と伸びやかになった様にお見受けしました。人間社会ではやはり地位も必要なのかも知れません。
さて、五木寛之さんの歎異抄私訳を二回ほど読みましたが表現は分かり易いと思います。これを未読していく選択肢は是でしょうかお伺い申し上げます。
遠藤 拝
副住職
遠藤さんへ
コメント拝見しました。
歎異抄についてですが。
私訳歎異抄はとてもわかりやすく書かれていますし、それを味読していくということはとてもいいとおもいます。私も何度か読みなおしています。また原書を呼んで、自分なりの解釈をしたうえでその違いを比べるのもいいんじゃないかと思います。私は後者で、自分の読んだ歎異抄を、五木さんはこう読んだんだな。というところに面白みを感じるわけです。
少し、ここからは私の感想ですが、
そもそも歎異抄という書物は、親鸞聖人の死後、真宗の教えが間違って世の中に広まってしまっている。
それを、なんとかしたいという想いから、唯円という方が、自分が親鸞さんと一緒に過ごした中で、
自分がぶつけた質問、自分の耳で聞いた言葉をまとめたものです。
その前提のある中で。
これは私の考えですが、仏教というのは、そもそも対機説法というものの上に成り立っていると思います。
対機説法というのは、仏陀は、自分の悟りを、体系付けた理論として語らずに、その都度その相手にあわせて言葉を選び、教えを説いたわけです。
つまりは、この人にはAといったことも、ある人にはBということもあるわけです。
大事なのは、そこの根底にはなにがあるのか。ということに目を向けることだと思います。
真宗でも、その心は大切だと自分自身でも感じています。
蓮如上人は歎異抄を禁書としました。
それは歎異抄というのは、あくまで唯円さんの解釈であること、またその言葉じりとらえて、
その言葉を、真宗はこうである。ととらえてしまうことにある危険性に気づかれたからではないかと思います。
歎異抄は、親しみやすく、わかりやすい半面、そこにとらわれてしまうと、真宗というものの本当の姿が見えなくなってしまうのではないかと感じることがあります。
ですので、私訳歎異抄も、そうですし、もちろん歎異抄の原書もそうですが、その言葉にあまり深くとらわれることなく、真宗という教えを感じた人の残した言葉であるというか、私見ですが、一歩引いた見方をすることも大事なような気がします。
五木さん自身が、「歎異抄」が蓮如さんにより禁書とされたことに対し、五木さんは「肉声と文章」の違いで解釈が異なるという点をあげているそうです。これは、聞いた話なので、真意はわかりませんが、いうなれば、親鸞聖人の言葉、唯円さんの言葉、五木さんの言葉、というのは、それぞれの中にある真宗であり、真宗では了解であるという点が大事な気がします。
これはすごく文章で伝えるには難しいことです。
しかし真宗にとって一番デリケートで難しい問題でもあると感じています。
もしお時間がありましたら、今度お時間をとって直接お話しできればと思います。
しかし王楽さんの落語とてもおもしろかったです。お人柄も良くて、これからもぜひ来てくれたらいいなぁとひそかに思っています!