寂円寺徒然日記
ランドセルの件(追記)

誰かになにかをしてあげたいと思う気持ちは意識的に起きるものでなくて、自然とわいてくるものであって、なにかを守りたいとか力になりたいというのは、そこに本当は理由なんかないんだと思います。

そういう気持ちがわいてくるということが人間のすばらしい部分で、そこだけは間違いなくて、それを否定したら人として大事なモノを見失ってしまうのではないかと思います。

ただそこでなにができるか考えたときに、人は、自分の経験と想像と視野のなかからその答えを導きだして自分の中でベストだと思う答えを出します、いうなればそこで初めて人は意識的になるのだと思います。

その答えの1つがランドセルであったわけです。

でも人間は意識的になった瞬間に、自分を通して発された瞬間に、 発する人の数だけ答えがあって、経験の数だけ真実があるわけだから、それは善悪をこえて、価値観をこえて、本当の意味での正解ではなくなるのだろうと思います。

誰かの為になりたい気持ちはすばらしい、というよりもそれは根源的なモノだから否定しようがないけれど、そこで誰かの為になりたいと思ってした行動が必ずしも相手の為にならないという可能性を秘めているんだということを忘れてはいけないと言うことが大事で、

つまりは名乗ろうと、名乗るまいと、ランドセルを送ろうと、お金を送ろうと、そういう行動に人を動かした動機は間違いなくすばらしいものだけど、今回の件を見ていて、ただその動機がすばらしいことと、その動機からでた行動がすばらしいかということは別物で、そこを切り離さないといけないような気がしました。

そこさえしっかりわかっていたら、人は生きていく上で絶対に所作にも言動にも行動にもでるんだろうと思うし、なにをすればいいかではなくて、それを忘れさえしなければ、なにをしてもぶれることなく、どんな窮地に立たされてもしっかりと筋を外さずに現実を歩いて行けるのかもしれません。

今回の件で、いろんな分野の人と話をしたり、ツイートをみていて、発する人の数だけ答えがあって、経験の数だけ真実があるわけだから、いろんな意見がでるのは当然で、そもそもそんなものは収集なんかつかないし、収集がつかないまま、平行線のままで当然なんだと思います。

ただブームが去ればだれもそれ以上この議論をしないで、一過性に過ぎて、そんなこともあったねといって、また数年して同じようなことがおこれば、同じように自分の意見を主張しあうだけではもったいないなと感じます。

大事なのはそれぞれが感じたことを自分の中に落として、生活の中に、また生き方の中に反映していくことだと思いました。

それとネット社会になって、この膨大な情報の中にあぶり出しみたいに、人間っていうものが浮き彫りにされてる気がしました。


副住職

コメント