寂円寺徒然日記
インド旅2001 総括

先日インドに行ってきました。

その中で感じたことを何回かに分けて掲載したいと思います。旅の間にまとめた文章をそのまま掲載しますので、きれいにまとまっていない部分もありますがご了承ください。

本当は時間軸にそって書いていきたいのだけど、まずは総括として。

今回の旅が終わって。

家に帰ってきて、あっという間に日常が戻ってきて、街を歩く速さも時間も食欲も、身体の隅々のたるみきった感覚があっというまに既存設定に順応し始めようとする。

それがいいのかわるいのかはわからないのだけど・・・

インドを旅して。

正直言えば、旅の締めくくりに際して、自然と共に生き、たゆたう聖なる川に抱かれて生きる彼らには、足りないけど何かがある。それは日本人の忘れてしまった何かなのかもしれない。とかなんとか言ってキレイにまとめようと思えばまとめられると思うのだけど、けど今回、そんな頭の芯から酔うような感覚を味わったかというと、そんなことなくて、今回ほど冷静にいろんなことを考えながら旅をしたのは初めてかもしれない。

それがなんでか考えた。

たぶん、それはインドの現状はどこまでも現実だからなのだと思う。なんかすごくリアルなんだ、人が生きているということが。

すべてがすべてではないにしても、どんなに表向きには共生しているように見えても、旅行者にわかるくらいにカーストの壁はあるし、貧富の差も激しいなんてものではなくて、それはギャップなんて呼べるほどかわいいものではない。それなのにそれぞれがその自分の置かれた現状にふてるわけでも、腐るわけでもなく、言い方は悪いが、おこがましく、ずぶとく、それぞれがあたりまえのようにそこに生きているのだ。

決して覆ることのない絶対的な壁をどてっぱらで受け止めて生きているというのが、インドの根底にある力強さであり、その空気がインドという国を醸し出しているような気がしたのだ。

(それがプライドの高さにも通じてくるし、間違った道を平気で教えることにも繋がるのだけどその話はまたあとでまとめる)

デリーの街でバラモン階級のインド人の家に案内され食事を振る舞われる、豪華な一軒家で次から次に料理が運ばれてくる。子どもたちは、キレイな服を着て、芝生のキレイに整えられた高級住宅地の公園で遊び、おもちゃもたくさん持ってる。その彼と車で街に出れば、信号待ちでとまる度に、そこの家の子どもと同じくらいの年の子どもたちが、車の行き交う交差点のど真ん中で、真っ黒になりながら、花を売り、時に大道芸まがいのことをして、バクシーシを求める。

バラナシの街では家に住んでいるインド人が小屋に住んでいるインド人を使い、齢60も越えているであろう老人が町中に散乱した糞尿を掃除をしていて、旅行者にやせこけた腕をさしだしてバクシーシを求める。それを若いレストランのオーナーは怖い顔で追い払う。

それがインドなのだ。

(そしてその現実は宗教心や信仰心にも直結している)

そんな現実を旅するうちに、日に日にこの国での旅行者の立ち位置というのはとても面白く興味深いなと感じた。

どこにも属さず、カーストを超越した自分たちは、彼らにとってはある意味、治外法権なのだ。お金になる可能性があるなら挑戦してしかりなのだ。

だからこそ旅行者は気をつけなければいけないし、そのあたりを頭に入れておかなければいけないと思う。そういう点で他の国に比べて、この国ではすごく体力と気力を消耗するから、それが嫌な人はもうインドには行きたくないと思うのだろうと思う。

でもそのデメリットの反対側にあるものは、カーストを超越した立場の自分たちだからこそ、相手にとってはフラットになりえる存在なのだ。そしてインド人にとってフラットという関係で結ばれることこそが強い絆なのだ。

そしてその絆ができた相手に対してインド人の心のひらきっぷりは日本人のフレンドリーさを遙かに凌駕する。インドにはまったという人の多くは、インド人の人柄であり、人間そのものに取り込まれているのだろうと思う。それはつまりはそういうことなのだと思う。

インドで仲良くなったインド人は自分をガイドと呼ばれるのを嫌う。そこに主従関係のようなものができることを嫌がるのだ。それを聞いたときに、インド人がすごく理解できた気がしたのだ。

その根底にあるフラット信仰のようなものが、インドの空気と人間を醸し出していているのだ。

つまりは根深いデメリットの反比例にあるものが、この国の最大の魅力をつくっているいっても過言ではない気がしたのだ。

なんとなくそんなことを考えながら、インドを旅していたので。

ガイドブックを鵜呑みにして、インド人の差し出すものには一切手をつけず、鞄を大事そうに抱えて、何どもチャックが開けられてないか確認したり、なにからなんでも1Rp単位までまけさせようとごねていたり、インド人との約束を簡単にすっぽかしたり、なにを話しかけられても無視して目すらも合わせない旅行者をみていて、すごくもったいないし、そんなんじゃインドの魅力のこれっぽっちも見えないんじゃないかとすら感じたし、そんなことを助長するガイドブックの書き方にも疑問を覚えた。

(それでも書かなきゃいけない気持ちもよくわかる、いうなればこの国での旅行者の立ち位置を言葉で伝えることはそもそも難しいのだ)

だまされる前提は仕方がないのだ。それは先にも述べたが、自分たちは旅行者であり、相手からしたら治外法権なのだ、その前提を頭に入れた上で、ここから先は旅行者の問題なのだ。

そこで相手との立ち位置を自分で変えない限りインドの魅力は絶対にわからない。

忘れちゃいけないのは。そのさじ加減なのだ、そのさじ加減がとても難しい。心を開くというのは簡単なようで難しく、距離を詰める、フラットを結ぶというのは、一長一短でできるこではないし、時間の少ない旅行者にとって短い時間でそれを得るというのはかなりハイレベルのことなのだと思うし、すべてにオープンマインドで、こちらから距離をつめていけばいいと言うものでもない、むしろそういう一方的にフラットを築けていると思い込んでいる人ほどカモになりやすいとも言えると思う。

(インドの危険な体験を語る多くの人は、なにも聞いていないのに自分からそれを語るくらいのスピードで距離を詰めてこようとしたりする人が多い)

どこで誰にどうやって心を開いていくかいう判断と、その判断を実践に移せるだけの技量が言うなれば、旅人の資質みたいなものなのだろうと思う。インドには目を見張るくらい旅のうまい人も、イガイガするくらい下手な人もいる。それが顕著に見えたし、自分の小ささも駄目さもよく見えて、本当に勉強になった。

これはもう言葉では説明できないのだけど、郷には入っては郷に従えという例えになぞらえるのなら、インドの郷に従うのなら、そこに住む人間をよく見て、よくよく見て感じて、目を見て話をすることなのだと思う。

(目を見て話していれば薬でとんでるかどうかくらいの判別もつくし)

今回、本当にその距離感と言うことを自分の中で実感を伴って学んだ気がした。

インドという国の人間は本当に面白い。

インドという国は、清濁併せ持った実に人間くさい、むきだしの国なのだ。

だからすごく好きにもなれるし、すごく嫌いにもなれるのだ。

今回はめずらしく結構感情的にインド人に怒ったりとかしちゃって自分もまだまだだなと反省。

ビバナマステ。

これから時間軸にそって感じたことをまとめていこうと思う。でもこの経験や体験は、文章にするよりも本当は、直接口で伝えた方が空気感が伝わるような気もするのだけど。旅の記録として、少しづつまとめていきたい。

副住職
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