寂円寺徒然日記
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親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞─生涯と名宝
先日京都で開催されていた「親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞─生涯と名宝」をみてきました。
 
そこで感じたことを熱冷めやらぬうちに書き残しておこうと思います。
 
私が仏教の教え、真宗の教えを学んできたこと、そのそもそもの動機やきっかけが何なのかといってしまえば、お寺に生まれたからということが一番先に来る理由であり、だからこそ学んでいくことは必然であったように思います。だからこそ、つかずはなれずも途絶えることなく小さな頃から身近に仏教に、真宗に触れ続ける中で、経典や教えの中に書いてあることを理解しようとしたり、年を追うごといろいろな経験をする中に気づかされたり、つながったり、味わえる言葉も増えてきて、そんな瞬間に真宗の教えの面白さや寛容さや、ありがたさに実感をともなうことも多くなってきたように思います。
 
不惑をむかえてもまだまだ惑わずとは程遠いですが、自分なりに教義や教えを学び、知識は昔に比べて多少なりは増えたのかもしれないけれど、今回親鸞展をみて一番感じたのは、そんな知識としての文字や言葉を超えたとてもリアルな「息遣い」でした。
 
法然上人から写本をゆるされた親鸞聖人がどんな思いでこの写本をしたのだろうかとか、裏紙にまでびっしり写経された阿弥陀経、晩年にいたるまでにびっちり加筆を加えた教行信証の至る所にあるにじみや、しみの一つ一つまで、そこにとてもリアルな息遣いを感じました。
 
聖人の残されたものはもちろん、それ以前に多くの法然上人門下の僧侶や、聖人亡き後の門弟や子どもたちや孫にいたるまでに、さらにいえば、教えをつなぐために絵像や木像を残してきた多くの仏師や名もない写経生や、東西本願寺にかかわってきた宮大工や絵師にいたるまで、浄土教が紡がれてきた長い年月の、わずかこの数百年歴史の中にですら、これだけ多くの先人たち、その一人一人の想いと、それを形に残そうとしてきた途方もない時間と想いがあったということの、生々しさのような、まさにリアルな息遣いが心の琴線触れました。
 
そのたくさんのリアルに触れたことで、まさに身命を賭してまで、こんなにも多くの人が紡ごうとしてきた浄土教という教えというものが、聖人以前にまでさかのぼれば2500年という、途方もない時間の中で、どんな苦難の中でも、時代の中でも消えずに残ってきていて、そこまで人間を突き動かすものって一体何なんだろうとか、そんな途方もないものなのに、それは目にも見えなくて、触ることもできないくて、でもたしかにそこに存在しているんだとか、そこに何千何万の人たちがそこに人生をかけてきていたという事実にただただ深く感じ入ることがあったのです。
 
そして、その流れはこの現代にも続いていて、その末端の末端の端くれに自分の役割があるのだとしたらと考えたときに、必然でしか学んでこなかった自分自身に反省させられるような気持になりました。知識として知っているということだけでなく、その息遣いの一端に触れたことで、点が線になったような、学ぶ根っこの部分が少し太くなったような気がします。とてもいい機会をいただくことができました。
 
当日会場で、今回の展示の図録を購入しましたので、ご興味のあるかたはぜひお参りの際にお声掛けください。
 
副住職
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